ヘルベック
ヨハン・フォン・ヘルベック(1831-1877)は、ウィーン生まれの作曲家、指揮者だ。20代で頭角を現し、宮廷楽団楽長、宮廷オペラ指揮者、楽友協会芸術監督を歴任した。ブラームスがウィーンに進出した頃には既に、そこそこの地位にあった。
ブラームスは1862年にウィーン進出を果たすと、まずは室内楽のピアニストとして楽壇にデビューした。いくつかの演奏会のセッティングではヘルベックの世話になっているし、ヘルベックはブラームスの作品を評価した。同世代の音楽家として意気投合したというニュアンスだ。
ところが1872年になると、この同じ人物が違うニュアンスで描写される。この年ブラームスはウィーン楽友協会芸術監督に就任するが、ヘルベックはその前任だ。ヘルベックがその地位に未練があり、ブラームス在任中に水面下で復帰を画策したとされている。1873年5月にウィーンはバブル経済が崩壊し、演奏会の入りが悪化した。これをブラームスのプログラミングのせいだとする一派が、ヘルベックを担ぎ出したとも考えられているが、10年前の意気投合もどこへやらという感じである。
ブラームスはこの手の非音楽系の揉め事に嫌気がさしたのか1875年春をもって退任し、その後任にはヘルベックが収まった。
1876年12月18日、このとき楽友協会芸術監督だったヘルベックの指揮によりブラームスの交響曲第1番がウィーンで初演された。ハンスリックの批評が遺されているが概ね好意的だ。このシーズンはヘルベック最後のシーズンになった。翌年ヘルベックは46歳の若さで急死する。
ブラ1で最後の花道かもしれない。
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