楽譜の間合い
少し詳しい伝記には、ブラームスは人にピアノを教えていたことが書いてある。教えられた側の何人かが、ブラームスの想い出を記録に残している。クララ・シューマンの弟子でもある英国の女流ピアニストは、ある時ブラームスは楽譜を指差して「全てはこの中に書いてある」と言っていたと証言している。
またヘルムート・ドイチュ先生もそのご著書の中で、「レッスンは、どの道楽譜に書いてあることの指摘と確認に多くの時間を費やす」と書いておられる。全ては楽譜に書いてあるのだ。問題はそれに気付くかどうかということにあるらしい。
クラシック音楽といわれるジャンルにおいて楽譜は、ある意味で絶対である。楽譜通りということが、まず何よりも尊重される。楽譜に書いていないことをしてしまうのは、「のだめ」でなくてもご法度なのである。個人の表現は、何をおいてもまず「楽譜通り」の範囲内で行われねばならない。
音楽の保存媒体としての楽譜の優秀性がその根底にあると思われる。CDもDVDも無いことを思い浮かべるといい。発音するそばから消えてゆく音の羅列を保存するのはとても難しい。だから音を発するタイミングと音の高さと長さを記号化し、少々の語句で補足した楽譜というシステムは秀逸である。楽譜は作曲家の意図の凍結物として珍重される。演奏家によって正しく解凍されさえすれば、作曲家の意図がたちどころに復元できるのだ。
かくして楽譜は、演奏家たちの出発点であると同時に到達点という意味合いをも持つに至った。楽譜を見て正確に楽譜をトレースすることが基本なのだ。その証拠に、楽譜を見ないで演奏することが「暗譜」と名付けられて珍重されているし、楽譜から意図的に逸脱することも「アドリブ」と命名されている。あるいは、初めての楽譜を見て間違えずに演奏することにも「初見」という名前が奉られている。不思議なことに楽譜通り正確に演奏することには名前が付けられていない。実を言うとこれは、不思議でも何でもない。当たり前とされているからだ。
しかしながら、さりながら、クラシック業界あげて「楽譜通り正確に」がスローガンとして打ち出されていながら、結果としての演奏にはおしなべて演奏家の個性が宿る。この事実は貴重だ。みんながみんな同じ演奏だったらつまらないからだ。楽譜はこのあたりの突き放しかたが絶妙だ。同じ楽譜を見て演奏しているのに下手とうまいがキッチリ割れて出る。先ほどの言い方に従えば、解凍の仕方を誤ると味が落ちるということなのだ。あるいは、解凍の方法一つで、細かな味わいも自在に加減出来るということでさえあるのだ。作曲家の意図は網羅しながら、演奏家の個性の宿る余地も残されているという距離感が絶妙と言わねばならない。こうした微妙な塗り残し感覚が楽譜の最高の長所かもしれない。
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