作曲家の制約
作曲家、画家、彫刻家、版画家、小説家、書家、詩人、歌人、俳人、演奏家等々、これらを「芸術家」と一括することに異論は無かろう。きっとまだまだあると思う。芸術家の定義となると難しくもあるのだが、列挙は比較的容易だ。
この中で、作曲家だけが他と違う制約を課せられているといつも感じている。作曲家以外の芸術家は、受け入れ先となる人の五感こそ違うものの、自らの芸術を人々に直接感じさせることが出来る。
作曲家は違う。残すことが出来るのは楽譜だけだ。演奏家でさえ演奏を直接聴衆の感性に問うことが出来る。作曲の目的は楽譜を作ることではない。その先にある音楽が目的なのに、音楽そのものを残すことは出来ないのだ。目的に到達するためには必ず演奏が介在せざるを得ない。自作自演は作曲家存命中のみ可能となる。
楽譜の出来映えを誉められることなどありはしないのだ。それでも作曲家は楽譜に全身全霊を傾ける。思いの全てを楽譜に注ぐはずだ。演奏によって、正しく自作が解凍されることを念じて楽譜を仕上げるに決まっている。自作が正しく演奏されるためには、何でもするに違いない。
現在伝えられる楽譜は全てその格闘の結果として存在している。どんなに制約があっても作曲を不自由だとは思わない。むしろそれが魅力の一つだとさえ感じる。
私が「ブラームスの辞書」を書いた理由のほとんどをそれで説明することが出来る。
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