年齢指定
世の中には数多くの年齢制限が存在する。
飲酒、自動車の運転、選挙、被選挙、喫煙、成人映画、成人雑誌などなど枚挙に暇がない。大人になってからしか認められていない事項が多いという訳だ。
ブラームスはどうだろう。もちろん法的な制限はない。未成年にブラームスを聴かせても、弾かせても罰せられることはない。
しかしながら、ブラームスに限らず作曲家には長い間に積み上げられてきたイメージというものがあって、そのイメージが一人歩きをしてしまって、あたかも制限があるような様相を呈しているケースも少なくない。普段何気なく使う言葉にそれを感じることがある。たとえば「○○○は大人の音楽だ」「○○○は子供にはまだ早い」「お若いのに○○○を判っている」「○○○は子供のように純真だ」などである。「○○○」の部分には作曲家名や作品名が入ると言うわけだ。否定的肯定的どちらのニュアンスで使われることもあるようだが、結果として作曲家あるいは作品の「対象年齢」を無意識に規定していることに他なるまい。
ブラームスの音楽をこのような見方で捉えた場合、子守歌やハンガリア舞曲を例外とすれば、どちらかというと「大人側」それも「やや年配」に寄った作曲家だと考えられている節がある。
ピアノにしろヴァイオリンにしろ子供の発表会ではとりあげられにくかったりする。私が19歳でブラームスに傾倒し始めた頃、「好きなのはブラームスです」と自己紹介すると「お若いのに渋い」みたいな反応がかえってきたりした。嫌いと言うと理由を訊かれるのがモーツアルトで、好きと言うと理由を訊かれるのがブラームスだったりもしていた。
「若い頃はベートーヴェンだったが、このごろはドップリとブラームスです」という言葉と、その逆「若い頃はブラームスだったが、このごろはドップリとベートーヴェンです」という言葉では、どちらが語られる頻度が高いだろう。根拠は全くないが前者だと思う。
なんだか窮屈な話だ。ドイツでも同じなのだろうか。
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