大器晩成
ブラームスを指してこの言葉が用いられる時、しばしば頭が混乱する。
ブラームスの創作人生の何を称して「大器晩成」というのか首をかしげたくなることも少なくない。10歳になる前からブラームスは音楽的な才能を示したことが大抵の伝記には書いてある。最初の教師は多分父親で、次の教師はコッセルだ。この二人ともがブラームスの才能を確信したからこそ10歳でエドワルド・マルクセンに師事することになった。そのマルクセンもブラームスの才能を見抜き徹底して古典を叩き込んだ。やがてブラームスはピアノ協奏曲第2番を献呈してマルクセンに謝意を示している。
「この程度の実績では、ブラームスが壮年期以降に成し遂げた成果に比して貧弱だ」という意味で「大器晩成」という語が使われているのだとしたら、一応納得できる。
交響曲、弦楽四重奏曲、ヴァイオリンソナタが壮年期になって世に出たことが「大器晩成」と呼ばれる理由だろうか?しかし「第1番」が必ずしも「最初の作品」ではないことは常に念頭におくべきだ。3曲のピアノソナタを20歳そこそこで作曲したという事実をもってしても「大器晩成」という形容がまかり通るのだろうか?何かと強調される「第一交響曲に20年云々」というエピソードの影響が無いとは言えまい。容赦のない自己批判の結果、残された作品の品質は若い頃から一定の水準を保ち続けているブラームスを「大器晩成」と称するのは少し違和感がある。
「神童としてもてはやされなかった」あるいは「若死にしなかった」程度の意味で「大器晩成」という言葉が使われてやしないか心配になる。
ひょっとすると、学校の音楽室のお決まりの肖像が「大器晩成」という言い回しの無意識な根拠になっているかもしれない。
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