神童
「特定の分野に関して非凡な才能を持った子供」くらいの意味。音楽史でも作曲・演奏の両分野で神童に関するエピソードには事欠かない。残念ながら聴衆側に神童の概念はないようだ。
子細に見るとさらに、おおよそ以下の如く細分化出来ると思われる。
- 大人顔負けであること。これが本来の意味。20歳過ぎてただの人になってもよい。
- その年齢の子にしては優れていることの誇張表現。
- 上記1も2も満たしていないにもかかわらず主にマーケティング上の意図から神童と呼ばれている状態。ブラームス自身ピアノの才能を認めたプロデューサーからアメリカ行きを持ちかけられたことがある。
1896年2月1日、13歳のブロニスラフ・フーベルマンがブラームス本人の前でヴァイオリン協奏曲を演奏した。終演後ブラームスが楽屋に駆けつけるとフーベルマンは、カデンツァの途中で拍手が起きて集中できなかったことを嘆いていた。ブラームスは「それならカデンツァをあんなに美しく弾かなければいいのだよ」と言って慰めたという。大抵の伝記には「神童の類を好まなかったブラームスにしては珍しく」というニュアンスで書かれている。とてもセンスのある誉め方だ。ブラームス本人とのこうしたエピソードがヴァイオリニスト・フーベルマンを内外から支えたことは想像に難くない。フーベルマンは20歳を過ぎてもただの人にはならなかった。
このエピソードから、ブラームスが嫌っていたのは、上記分類の2または3の意味の「神童」だと思われる。あるいは「神童」という言葉そのものへの嫌悪だった可能性もある。優れた演奏が子供の弾き手によって実現した場合、賞賛の意思を温かく表現するデリカシーは持ち合わせていたと考えられる。
もちろんブラームス自身は神童扱いされていない。大器晩成 と神童の間くらい。それなら私と一緒かというとやはりそれも違う。
しかし昨日、日本プロ野球28年ぶりの完全試合を達成した20歳と18歳のバッテリーは、神童にカウントしたい気分である。
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