涸渇
井戸や泉の水が干上がること。湧水が止まることだから、芸術上のアイデアが出せなくなることの意味に用いられることも少なくない。作曲家の場合、曲想が浮かばなくなることだ。日ごろ、「霊感無しには一行たりとも作曲すべきでない」と考えるブラームスにとって楽想の涸渇は作曲活動の停止を意味する。
1890年弦楽五重奏曲第2番を完成したブラームスは、自らの状態を「涸渇」と判断した。今後は過去の作品の整理に徹すべしとまで思いつめる。
実際にはこの後、一連のクラリネット入りの室内楽や、「世界遺産・ピアノ小品群」、さらには「4つの厳粛な歌」「オルガンのための11のコラール前奏曲」が書かれる。私のような愛好家には「涸渇」ではなく一瞬のスランプに見える。
ところが一部には、このうちのピアノ小品群を「涸渇」の証拠と感じる人もいるようだ。作品番号でいうと116から119までを背負った合計20曲の小品群は、主題やモチーフの面で相互に密接な関連を示すものがある。耳に心地よい旋律を思いつくままに次々を繋ぎ合わせるのとは対象的な世界を構築している。そこにあるのは限られた旋律やモチーフを様々な角度から掘り下げるという姿勢だ。当然用いられる旋律やモチーフの種類は少なくなる。それでいてプアな印象に直結しないところが、ブラームス的だと私は思うのだが、一部の人には曲想の涸渇のリカバーと映っているということなのだ。
私はフレーズやモチーフを含む曲想の節約を貧相と同居させないことがブラームス節の根幹の一つと考える。節約と豊かさが程よいバランスで両立しているのがブラームスだ。先の議論は、このうちの節約の部分だけを見て、涸渇と評しているように思われる。
個人個人の考え方の違いだから、仕方がない。しかしこういうものの見方が割と世間に流布した入門系書物の中に現われるとなると感心しない。聴き手が自分の判断で「涸渇」と感じるのは大いに結構だが、入門解説書の中で記述しては余計な先入観を植えつけかねない。
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