金槐のしずく
お気づきの向きも多かろう。今まで実朝の話題を重ねながら、個々の作品についての言及を避けてきた。ここまではいわば序奏だった。明日から個々の作品について取り上げる。作品の良し悪しを論じるには知見が足りていないから、好き嫌いだけが拠り所となるのはブラームスネタと同じである。
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お気づきの向きも多かろう。今まで実朝の話題を重ねながら、個々の作品についての言及を避けてきた。ここまではいわば序奏だった。明日から個々の作品について取り上げる。作品の良し悪しを論じるには知見が足りていないから、好き嫌いだけが拠り所となるのはブラームスネタと同じである。
もしかしたらという気にはなっている。実朝の作品を参考歌もろともエクセルに打ち込んでデータベースめいたものが出来上がってみると、実朝の全作品を品詞分解して、用いられた単語を50音順に列挙してSWV番号付与で場所を特定。あるいは使用頻度を測定して簡単なコメントを付す。使用形容詞ランキング、使用動詞ランキングくらいまではすぐに視野に入る。
座右に置く「新潮古典集成」が手ごわい競争相手になる。注や索引が充実しているからだ。
もし出来たらそれを「実朝の辞書」と命名するに決まっている。おバカな整合性だ。
実朝が歌作にあたって参照した歌群についての考察を続ける。昨日は参考歌の出典を勅撰和歌集と万葉集に限定した。これだけでもワクワクものだった。しかし、勅撰和歌集以外の出典も、数は少ないながらも興味深い。そもそも勅撰和歌集の選集にあたって、参考にした歌集がある。個人の歌集だったり歌合せだったりさまざまだが、要するにそこから抽出された結晶が勅撰和歌集だ。だからその源泉を訪ねれば、勅撰和歌集に漏れている秀歌にたどり着くいう理屈だ。
歌集にとどまらず物語にまで広げて主なものを列挙する。
この他に新古今当時、流行した歌合も出典になっている。もう手当たり次第という様相を呈する。若き征夷大将軍の吸収力の反映と見る。
実朝が参考にした歌の作者についてランキング化した。大変興味深いランキングではあるのだが、446首が詠み人知らずということもあり、作品の出典をキーに分析を試みる。勅撰和歌集に万葉集を加えた9つの歌集について、成立年代順に列挙し、実朝参考歌の出現数を添えておく。
おお。実朝が没する以前に成立した勅撰和歌集8種、すべて参照されているということだ。
多い順に並べると
となる。これなら詠み人知らずがあっても時代イメージは把握できる。
やはり新古今かというため息。歌人ランキング上位が新古今世代で固まっていたことと矛盾しない。古今和歌集、万葉集がこの順で続いてベスト3を構成するという端正な結果だ。私としては千載が低いのが残念だ。先行する古典に対する真摯な姿勢。
ブラームスっぽい。
実朝が歌作りにあたって参考にした歌の作者をランキング化 してみた。九条良経が60首で2位とはうれしい限りとはしゃいだばかりだ。その良経を抑えて69首で首位に立つのが紀貫之ではあるのだが、じつは最大の作品群が別にある。それは「詠み人知らず」だ。概ね「作者不明」のことではあるけれど、「事情により匿名」も一部含まれている。
実朝が参考にした歌を一覧化すると「詠み人知らず」が446首も存在することに驚かされる。実朝の関心が作者の知名度をキーとしていないことが明らかとなる。有名歌人の歌だけを参考にしたわけではないということだ。
ランキング登場の340名のうちたった1首だけ登場という歌人が186名、2首登場という歌人が56名。実朝の向学心の広さがうかがえる。
実朝自身の作品の他に、参考歌もエクセルに取り込んだ。データベースにも使えて便利だという話をする。
参考歌1694首の作者340名について引用回数順にランキング化してみた。
芳しいメンバーにため息が出る。気づいたことをいくつか。
日本史選択の受験生には必須。結果として明治維新まで約650年続く武家支配が確定した事件。朝廷と幕府のこの決定的な衝突は後鳥羽院が北条義時追討の院宣を出したことに始まる。準備万端やる気満々の幕府に無謀にも喧嘩を売ったとも評する向きもある。思えば普仏戦争だ。準備万端のビスマルク・プロイセンの挑発に乗ってまんまと宣戦布告をしたフランスに似ている。ビスマルクならぬ尼将軍の演説一発で、御家人が反幕府で結束してとも伝わるが、御家人たちからしたら単に勝ち馬に乗るための計算ずくかもしれぬ。院宣一本で誰も幕府に味方はするまいという後鳥羽院の目論見がはずれたと強調される。
歴史にたらればはないと承知で妄想する。実朝の暗殺がなかったら朝廷と幕府が果たしてここまでこじれたかどうか。金槐和歌集を見る限り、実朝は後鳥羽院への忠誠心を隠していない。実朝が定家から授与された新古今和歌集は事実上後鳥羽院の親撰だ。その出来栄え体裁、あるいは後鳥羽院御製を見て実朝は後鳥羽院のキャラを正確に読みとったに違いない。その上でなお後鳥羽院への忠誠心特盛の歌を数多く詠んだとなると、これを本心と解さざるを得まい。
金槐和歌集を定家経由で奏覧していに違いない後鳥羽院の心証はどんなものだったのだろう。心からの忠誠を隠そうとしない武家の棟梁の心証が悪いはずはなかろう。
もし暗殺がなければ、承久の変は起こり得ず、やがて実朝は京に上り、後鳥羽院に謁見。しばし京に滞在し和歌談義をしたに違いない。後鳥羽院のアンチ北条特盛な不意のご下問に、「御意」とばかりの気の利いた即詠で意気投合などということはあるまいか。やがては幕府を京都に遷すなどという密約まではいくまいか。
1219年1月27日の実朝の暗殺。翌日には彼の妻が落飾し、御家人百余名が出家したと伝えれらる。
御家人百余名の出家が多いのか少ないのか軽々しく判断できない。頼朝や頼家の死去にあたってどれほどの御家人が出家したのだろう。室町時代や江戸時代、将軍の死去に接しての家来たちの動向を確認せねば確かなことは言えまいが、少ないとは思えない。
部下に慕われたいたのではと考えたくもなる。これが在位16年の征夷大将軍が27歳の若さで暗殺された衝撃なのだと思う。実朝の徳を慕ってと考えたら行き過ぎだろうか。
彼らは必ずしも鎌倉に留まらぬ。むしろ各地に散らばって長く実朝の霊を慰めたと考えたい。甲斐善光寺 に伝わる実朝像を造立した集団はそうした人々の末裔ではなかろうか。吾妻鏡が黙して語らぬ実朝伝承の担い手となっていたと心得たい。
慶安5年だから江戸時代のことだ。今出川経季という人物が右大臣に任じられた。西暦に直すなら1652年3月18日のことだ。この人はなんと右大臣に任じられたその日に亡くなっている。右大臣在位1日でこれは史上最短だ。
1218年12月21日に右大臣に任じられて、翌年1月27日に暗殺された源実朝の在位は55日。在位1日の今出川経季ほど極端ではないにしても55日より在任期間が短い人は数人いる。がしかし大抵は左大臣に昇進するためだ。死没か昇進でしか空きが出ないのが右大臣だ。実朝の昇進は左大臣死去に伴い、右大臣が昇進して空位となったためである。そのわずか55日後に落命するとは思ってもいなかっただろう。
しかもそれは実の甥による暗殺だから京都ではそれなりの騒ぎになる。後鳥羽院や定家の受けた衝撃は小さいはずはない。貴族たちの日記にもそれが見て取れるというのに、吾妻鏡は淡々としている。
鎌倉時代の歴史書。北条氏の手による正史の様相を呈する。頼朝から6代将軍までを編年体で追いかける。北条氏視点に立った記述のため、同時代の別書物を参照しながらの確認も要るとされる。しかし鎌倉時代を知りたいと思ったら避けてばかりもいられない。
実朝の実情を知ろうとする場合、「金槐和歌集」と並ぶ2本柱とならざるを得ない。頼朝、頼家、実朝の死により一番得をしたのは誰かという視点からは、生煮えの記述もある。都合の悪い場合は沈黙しているようにも見える。少なくとも実朝補正のかかった私にはそう見える。
実朝の将軍在位は1203年から1219年まで16年にも及ぶ。江戸時代大御所と呼ばれた家斉の在位50年には及ばないし、吉宗や綱吉などの有名所よりも短い。室町幕府なら義満や義政には及ばないが、徳川秀忠と同じくらいでけして短くはない。北条氏の操り人形だったとか、官位に固執し、和歌や蹴鞠に没頭する公家かぶれだとか武士らしからぬ軟弱さだとか、こうした一般のイメージには吾妻鏡の印象操作もありはしないかと危惧する。
日本書紀を紐解けば「悪逆非道の前帝に代わって即位」という場合、前帝が本当に悪逆非道だったかどうかは一応怪しむべきだ。前帝からの皇位継承が不正だったことを隠す印象操作の可能性がある。歴史書を書いているのは前帝ではなくその後継天皇だ。前帝が悪い奴だったほうが何かと好都合だということだ。おごる平家はそれほど悪くなかったかもしれない。源氏にとっては「平家がわがままで、民心が離れていた」方が都合がよかっただけではないか。私には実朝が暗愚で、軟弱だった方が好都合な人が書いたのが吾妻鏡だと思えている。
過剰な実朝補正というお叱りは元より覚悟の上である。
「歌詠みに与ふる書」で引用された実朝像は子規の反古今集の象徴とされ、実朝があたかも「万葉調」の使い手であるかのような印象を持って語られる。新古今の後になって現れた万葉歌人たる位置づけ。といいながら子規は真淵への論評で一部の万葉歌を批判もしている。実朝礼賛ではあっても万葉を手放しでは賞賛しない。
私が初めて「歌詠みに与ふる書」の実朝論に触れて舞い上がったのは、「遅れてきた古典派」あるいは「遅れて来た万葉歌人」という位置付けがブラームスとかぶったからだ。ロマン派の終焉間近に出現した頑固な古典派という評価に通ずるものがあると感じたからだ。子規の激賞が古今集批判のツールだと種明かしされて我に返った。ブラームスは時に古典派どころかバッハさえ飛び越えて前期ドイツバロックに及ぶ古い音楽への敬意を感じさせてくれる。飛び越えて昔に戻りはするが、飛び越す先輩作曲家への敬意だけはいつも忘れない。
金槐和歌集の雑歌の部に到達する前の伝統的部立ての中では、古来の和歌の伝統に身を置くための挌闘が見て取れる。本歌取り、歌枕、掛詞、枕詞、序詞の技法を駆使して古典の制約の内側に留まることと個性の発露の両立を健気に志向した。
そしてそれが雑歌の中で結実する。京都の貴族には詠めない歌。武士の痕跡、東歌のたたずまい、意図的とも無意識とも断じ難い不器用さ。若さに似合わぬ風格。縦横無尽の着想と語彙。私はそれらに心から共感するものの、前段の挌闘を否定しない。雑歌とそれ以前の豹変ぶりこそが鑑賞の対象となっている。
正岡子規の論述。とはいうものの冒頭いきなり「最近の歌」のヘタレ振りを嘆く。曰く「万葉以降、実朝以降ロクな歌がない」とかなりな剣幕だ。いささか唐突な実朝の引用だというのにひるむ様子もなく続く。「30にも届かずにあえなく惨殺されたが、もし長生きしていたらもっと名歌を出していたはずだ」と。人麻呂、赤人、貫之、定家と著名歌人を次々と列挙しながら、実朝はそれらに埋没せぬと説く。山と高さを争い、月日と光を競うようだとさらにエスカレートする。誰に聞いたか「古来凡庸の人だとの評価された」ことは誤りだときっぱりである。とどめが彼の作品に対する評価「単なる器用ではなく、力量、見識、威勢取り揃え、時流に染まらず、世間に媚びず」だ。「死に歌詠みの貴族とは正反対」ととどめを刺す。
冒頭の実朝礼賛が一段落すると、同じ勢いで賀茂真淵や万葉集の批判に移るが、今の歌はこれらよりもっと下だと手厳しい。
さらに「再び歌詠みに与ふる書」「三たび歌詠みに与ふる書」とほとばしる。紀貫之と古今集もこてんぱんの論調。一部新古今もやり玉にあがる。あろうことはこの調子で「十たび」まで与えられていささか満腹だ。
冒頭の実朝激賞は、その後延々と続く万葉。古今、新古今批判のツールだと判明する。昔、冒頭の実朝激賞の部分だけに触れて、すっかり舞い上がった私だが、冷静に全体の文脈を味わうに至って得体の知れぬ違和感を感じた次第。「金槐和歌集」雑歌以降展開する実朝節ばかりに目が行って、それ以前の挌闘が無視または過少評価されてはいまいかという違和感。そんなほめられ方は実朝自身望んではいるまいという、おずおずとした確信。定家が実朝に授けた「詠歌口伝」との最大の違いは「先行歌人へのリスペクトの有無」だ。こうした目で眺めてみると「歌詠みに与ふる書」というタイトルが「上から目線」にも見えてくる。
音楽に例えていうなら、バッハや、ベートーヴェンやモーツアルトをとことん批判する文脈の中で、「それに引き換えブラームス最高」と叫んでいるようなものだ。ブラームスはそれを喜ぶはずがない上に、主張する本人の見識が疑われかねない。
けれども子規のこうした主張に賛同する人は少なくなかったと見ていい。明治以降の近代短歌はその脈絡の上にある。その意味でなら、私は歌詠みになりたくもない。
勅撰和歌集には定型がある。最初の古今和歌集で確立された部立てもその一つだ。概ね下記の通りだ。
このうち春から恋までは、おのおのの部の内部も時間的経過が意識される。春が細分されたり、恋の過程がトレースされたりするというわけだ。古来積み上げられてきた和の美意識に基づく決まり事と言い換え得る。まずはそれらをきちんと踏襲することが必要だ。詠み手自身の経験や感情、詠み手の眼前に横たわる事実よりも、決まりごとの踏襲が優先されるかのようだ。それを窮屈とせず、なおその制約の内側で自らの心を注入することが求められる。一方それらを否定して「自分第一」「事実優先」と頑張るのが現代短歌という極論も透けて見える。
実朝はその制約に嬉々として従う。「金槐和歌集」が勅撰和歌集譲りの上記部立てを再現していることからもそれを読み取ることができる。詠まれた歌を見てもその制約の内側に立つという強い意志が見え隠れして息苦しくもある。
ところがだ。定家初伝本でいうなら536首目から「雑歌」の部に入ると様相が一変する。ひとことで言うなら実朝が和歌の制約から開放されているように見える。正岡子規の激賞に代表される「万葉調の実朝」がこれ以降顕在化する。しきたりとはいえ「雑歌」などというタイトルはいささか誤解を招く。実朝本来の姿をそれまで無理やり伏せていたかのようだ。
雑歌部におけるこの激変ぶりこそ、「金槐和歌集」の最大の見せ場だと信じて疑わない。これほどの歌心がありながらなお、制約の内側にキチンと身を置くという意思。22歳だというのになんだかブラームスっぽい。
先般聴いたタメスティさんの演奏会場で、CDが即売されていた。開演前、何気なくのぞくと軽い衝撃。当日の演奏曲を収録したCDに交じってブラームスのヴィオラソナタのジャケットがすぐに目についた。即買いしたものの時間もなく、リュックに収めて着席した。
素晴らしい演奏に我を忘れて帰宅。そう言えばとリュックを開けて買い求めたCDを手に取って驚いた。2曲のヴィオラソナタに歌曲「ナイチンゲール」op97-1と「子守歌」op49-4をヴィオラとピアノ版が入っている。最後にはヴィオラとピアノが伴奏につく歌曲op91。タメスティさんのヴィオラで聴けて幸せだと満足していたら、独唱はマティアス・ゲルネ(Br)とある。バリトン版は未聴もいいところだった。
「それもありか」な演奏ではなく、いやもう凄い説得力の演奏だ。
実朝特集に5日間も通過待ちをさせて最後に走り去る演奏というにはあまりにチャーミング。
先日、銀座の王子ホールでバッハのガンバソナタを聴いてきた。アントワン・タメスティさんのヴィオラである。3曲全部聴けた上に、シャコンヌのヴィオラ版までついてくる。
<休憩>
アンコール
極楽だ。凄惨なニュースに痛めつけられた心にしみる。あの感動を文章にするのは徒労だ。苦痛でさえある。
鉄道開業150周年ではしゃいでいて記事にするのが遅れたけれど、忘れられぬ夜となった。
帝国書院「地図帳の深読み-鉄道編」という書物もまた日本鉄道開業150周年を強烈に意識した書物だ。刊行が9月15日となっている。昨日言及した「日本鉄道地図館」の2週間前にあたる。どちらも地図を切り口に鉄道を深堀りしようという意図は明確だ。昨日は様々な古地図の列挙を特徴としていたのに対してこちらは、中学高校の地理の教材として懐かしい地図帳をベースにした深堀り。加えて海外の情報ももりだくさんである。
本文168ページで、ゼメリンク鉄道が紹介される。「世界遺産になった鉄道」という切り口。同鉄道は標準軌鉄道として初めてアルプスを越えたからだという。その中で「ミュルツツーシュラーク」の地名が何度も現れる。私のようなブラームス好きにはたまらない地名だ。第4交響曲が作曲された街だからだ。「Zuschlag」の意味まで解説されていてのけぞる。
もっとも驚いたのは124ページのコラムだ。「ドイツの鉄道橋めぐり」というタイトルに心が躍った。そこで紹介されているのは、ゲルチュタール橋とレンズブルク橋の2つ。なんと私の2018年のドイツ旅行の目的地とピタリだ。
なんだかこの作者と話が合いそうだと思ったら、昨日と同じ今尾恵介さんだった。著者経歴を読むと私より一つ年上。お誕生日によっては同学年かもしれない。好きなことに打ち込んでそれを形にする。明快なロジックが見やすい仕掛けと同居する。膨大な情報量なのに読後に残るのは納得感だ。つまりこれが説得力かという感慨。
同世代として心から尊敬する。私もこうありたい。
書店で予約していた「日本鉄道大地図館」が届いた。
見ての通り大きくて厚い。右手はケースだ。
地図館といっても複数のページで日本全土をカバーという体裁ではない。「多種多彩な地図に語らせる日本鉄道の歴史」という様相を呈する。圧倒的な情報量と説得力。店頭でポスターやチラシを見ただけでは全く伝わらなかった。
39800円という価格。1か月半、迷いに迷って「清水のプラットホームならぬ舞台からパラシュート無しで飛び降りる」覚悟で購入を決意した。
「買ってよかった」と思えた。博物館に展示されたさまざまな地図を順に鑑賞する感じ。唯一の欠点は持ち運びに不便ということくらい。
今尾恵介監修とある。よほどの人なのだろう。
実朝特集を通過待ちさせるだけの価値がある。
本日10月14日は日本の鉄道開業から150年のメモリアルデーだ。英国における世界最初の鉄道から47年遅れの1872年のことだ。ドイツからは38年遅れという計算になる。
実朝特集を汽笛一声ぶった切っての言及。実朝の名付けの日と1日ずれる幸運を味わっている。
建仁3年9月15日、朝廷から鎌倉に千幡を従五位に叙すという位記と、征夷大将軍の宣旨が届いた。どちらも9月7日付けだが、東海道を8日かけて下ってきたということだ。同時に「実朝」の名を後鳥羽院から授かった。後鳥羽院が実朝の名付け親ということになる。
このあたり8月27日頼家重病、9月2日比企の乱、9月6日頼家出家と吾妻鏡の記述はとにかくあわただしい。
その後も9月21日に頼家の鎌倉退去が決定。9月29日修善寺に下向。10月8日実朝元服だ。
そうそう、征夷大将軍の宣旨の日付建仁3年9月7日を今の暦に直すと1203年10月13日となる。今から819年前の今日だ。
昨日「サネダス」の話をしたばかりだ。歌人実朝の作品データベースのことだ。実はそれにはおバカな続編がある。
私が参照する新潮古典文学集成「金槐和歌集」は、注が大変充実している。現代語訳、注意すべき単語、作品の背景にまで及ぶ他、実朝がその作品を詠むにあたって念頭にあったと推定される他者の作品が後注に列挙されている。「本歌取りの元歌」ほど厳密ではなく「脳裏にあった」くらいの参考歌のノリだ。
実は、それらも全部データベース化した。
実朝の作品1首に対して参考歌は複数になることが多いから、こちらは「サネダス」本体の757行の2倍強の1694行に達した。実朝の複数の作品が同一の古歌を参照していることもあるので、直ちに1694首を意味するものではないが、相当な数だ。
もうほとんどエクセル上の写経というノリだった。それはそれは実朝作品の入力に匹敵する楽しさ。実朝が22歳までに身に着けた先行作品に対する広大な知識の裾野に、目もくらむばかりだ。
書籍「ブラームスの辞書」の執筆に先だって、データベースを用意した。 我が家所蔵のブラームス作品の楽譜をすべてチェックして、音楽用語の所在地を以下の通りエクセル表に入力した。
作成におよそ半年を擁して21000行のエクセルファイルとなり、 これを「ブラダス」と命名した。
新潮古典集成「金槐和歌集」収載757歌をすべてエクセルに取り込んだ。 本当は筆写がいいに決まっているのだが、後々データベースとして使用することを考えてエクセル化を選んだ。 これまた後日検索条件とするために下記の通りフラグを付与した。
そう、お気づきの通りこのデータベースを「サネダス」と名付けた次第である。「ブラダス」に比べればたったの757行でしかないが、楽しみは匹敵する。
実朝の作品に親しむ私が、日頃手許において参照するのが、「新潮日本古典集成」の中の「金槐和歌集」だ。タイトルは「金槐和歌集」なのだが実態は「実朝作品全集」である。「定家所伝本」663首を基本に据えつつ、そこに収載のない作品も完全に網羅する。柳営亜槐本その他の出典から律儀に拾い集め、全757首がおさめられている。
なんとそこでは通し番号が付与される。定家所伝本収載作品663首を先頭にしているから、同歌集の巻頭歌が栄えある「1」で、巻末歌が「663」である。ここまではオリジナルのまま。次いで柳営亜槐本の41以下出典作の多い順に通し番号が振られている。
実朝作品の個体識別にとても重宝する。今後わがブログでも個々の歌に言及するとき、この番号を「SWV〇〇〇」という要領で付与する。バッハの作品について回る「BWV」のパクリである。「op」より引き締まる気がする。
実朝の歌集「金槐和歌集」には複数の異本が伝えられている。もっとも権威あるのが「建暦三年本」。そりゃあそうで、2013年鎌倉の実朝が定家から届いた「万葉集」の写本に返礼する形で贈ったという記述と一致する。別名「定家所伝本」だ。実朝自撰でありかつ部立てから詞書まで本人の手によるといういわくつきの663首である。
これに対して江戸時代貞享4年刊行の異本がある。奥書によって「柳営亜槐本」と呼ばれている。「柳営」とはもともと中国起原で「出征先の将軍の居所」のことだが、日本では単に「幕府」のことだ。「亜槐」は「大納言」の「唐名」。「あわせて幕府にあって大納言だった人」となる。室町8代将軍足利義政が有力視されているという。問題は収載数。定家初伝本より53首多い。部立ても修正されている。定家初伝本が実朝本人の自撰、部立てなのに、このうちの部立てをわざわざ修正するだけの見識の持ち主とするなら、義政は相応しい。収載数の差は、実朝が定家に贈呈してからも、作品が加えられていたことをうかがわせる。あるい定家が削除した53首かもしれない。この53首のうち41首は柳営亜槐本以外に見られない貴重な作品群だ。
義政といえば、23番目の勅撰和歌集の編纂を決意したほどの人物。芸術に関してはなんでも達者。応仁の乱で計画がとん挫していなければ、実朝の作品がいくつか収載されたことは確実だ。
1213年22歳の実朝が師匠定家に贈った私歌集。「金槐和歌集」の「金」は鎌倉の「鎌」の金偏。「槐」は「大臣」をあらわす「槐門」に由来すると言われている。定家が同本を贈呈された時点ではまだ、右大臣になっていないから、この書名は後付けだとわかる。定家伝所は昭和4年に金沢の古家で佐々木信綱が発見した。晩年の作だと思われていた歌が22歳までの詠だとわかって騒然となったようだ。28歳で暗殺された実朝に晩年の作などありはせぬのだ。
実朝が師匠に贈るために自撰したと信じられている。春夏秋冬賀恋旅雑の部立ては勅撰和歌集に倣ったものだ。この部立てまでも実朝の手によるものなのか議論もあるらしいが、お歌はすべて22歳までに実朝が詠んだものだ。
定家の導きに従って次々と古い歌を吸収していった学習の成果が特盛だ。春夏秋冬から恋までの部に収められた歌は、先輩方の作品の本歌取りテイストに満ちている。春夏秋冬賀旅恋には古来定型がある。いくら葉桜が美しくてもそれを詠む人はいない。桜は「待つ」「愛でる」「散るを惜しむ」のいずれかでなければならぬのだ。京都を一度も出たことはなくても全国の歌の名所をきりりと読まねばならぬ。どんなセレブの旅行でも、草枕のわびしさと旅の不自由を歌わねば様にならぬ。どれほど恋こがれた意中の貴公子から告白されても、ひとまず「あちこちで浮名をききますわよ」と応じなければならぬ。どれほど好調な恋でも「秋風とともに飽きられて」と嘆き、待ちくたびれた様子をふりまかねばならぬ。だから女流歌人たちの膨大な数の恋歌を見て「恋多き女」などと称するのは見当違いということだ。このノリで僧侶だって恋の歌を詠む。いちいちそれを「破戒僧」だと真に受けていては本質を見誤る。これが歌の世界。これを実朝は万葉集、古今和歌集、新古今和歌集その他から驚くほどのスピードで学んだ。
1204年に「新古今和歌集」、1208年に「古今和歌集」という具合に実朝は京都から勅撰和歌集の写本を入手した。これに次いで1213年定家は「万葉集」の一部の写本を実朝に贈呈する。定家自筆とも言われている。万葉集は勅撰和歌集ではないものの最古の歌集の座に君臨する。実朝がこれを受け取ったのが11月23日だ。
おそらくはこれに対する返礼なのだろう。実朝は定家に「金槐和歌集」を贈呈する。12月18日だ。同贈呈本の奥書の日付が健保元年12月18日とある。このとき実朝22歳。つまりここに収載された663首は22歳までに歌われたとわかる。貴重な写本や歌論書を惜しみなく授ける定家の恩に報いんと、ここまでの作品を私歌集の体裁にまとめて贈呈したということだ。実朝自撰とする説が学会の主流だという。
定家は喜んだ。と思いたい。その証拠に同本は「定家初伝本」として現代に伝わる。定家が大切に扱った証拠だ。後世の勅撰和歌集の撰者たちが参照したことは確実だ。
何という子弟の絆だろう。
天皇の命令によって編纂される勅撰和歌集は不定期だ。905年の古今和歌集に始まって1435年の新続古今和歌集まで続く。ここに1首でも採用されれば勅撰入集歌人扱いされる。そうとうな名誉だ。
その入集ランキングネタは既に記事にしておいた。
しからばとばかりに武士だけざっくりとランキング化を試みる。
室町8代将軍足利義政は入集がない。彼は23番目の勅撰和歌集の編纂を思いついたが応仁の乱で頓挫して以降今日まで実現していない。この時期以降の武士は入集全滅だ。
いろいろと興味深い。
それにしてもである。この中で京都に一度も行ったことがないのは実朝くらいかと思う。それでこの位置とは恐れ入る。
まずは以下をじっとご覧いただく。
新古今和歌集の成立は1192年生まれの実朝13歳の年だ。翌年初期作を30首送って前年に成立した新古今和歌集を贈られたという時間関係だ。古今和歌集の成立からちょうど300年の節目に無理やり間に合わせた後鳥羽院の剛腕だ。万葉集から古今和歌集までは200年経っていないのに、
古今和歌集から新古今は300年というのも地味に驚かされる。当然、実朝は新古今には間に合っていない。
興味深いのはその先だ。次の勅撰和歌集「新勅撰」までは30年空く。平安な年月ではない。実朝自身が暗殺され、承久の変により後鳥羽院自身も流される。明治維新まで続く武士の世への転換点を含む30年だ。
新古今和歌集の編纂では後鳥羽院の片手となった定家だが、やがて見解の違いから対立するようになる。1220年昇進に関する不満を反映した歌が後鳥羽院の逆鱗に触れ、勅勘を受けて和歌界から干されることになる。
見ての通り、その翌年に承久の変だ。これで朝廷が破れて後鳥羽院が流されたことで力関係がリセットされたということ。後鳥羽院は定家への勅勘を解かぬまま流されたが、かえってこれはプラスに働く。アンチ後鳥羽院の北条氏からの受けは良いに決まっている。
だから次の勅撰和歌集の選者を任されるという寸法だ。
定家は実朝の歌を大量25首も新勅撰和歌集に採用することになる。後鳥羽院など承久の変で罰せられた人の作品が除去されたりもする中、実朝勅撰デビューであった。これは最終的に92首に到達するものの単一集への採用数としては最多だ。北条氏がこれを不快と思わなかったのか気になるところだ。
1982年10月4日グレン・グールドが50歳でこの世を去った。卒中の発作で倒れてから8日後のことだ。50歳は当時としても若い。
私的ピアニストランキングの首位の座をペーター・レーゼルと分け合う存在だ。
彼のバッハについては最早語り尽くされている。私は彼のベートーヴェンだって好きだ。とりわけテンペスト。ワルトシュタインの録音がないのがつくづく惜しい。大きな声では言いにくいがモーツアルトだって無視できない。一般に流布したモーツアルトとは対極なのだろうが、生前のモーツアルトがグールドのように弾いていないとは断言できまい。
生誕90年のわずか9日後に没後40年が来る。
話せば長くなる。
13年前のこの記事 にコメントが付いた。ブラームスの歌曲「ザラマンダー」とシューベルトの歌曲「ます」の興味深い共通点を指摘する内容だ。いわく「これ本歌取りテイストでは」というご指摘。どなた様か存じませぬがと冷静を装って「貴重なご指摘ありがとうございます」と返信したものの狼狽していた。
コメントを頂戴したのが9月16日だ。つまり源実朝生誕830年のメモリアルデーイヴにあたる。翌17日のメモリアルデーから「源実朝」特集を始めるつもりだったから、本歌取りテイストの指摘に呆然とした。実朝特集の立ち上げのことなんぞ誰にも話していないからだ。本歌取りと言えば定家が実朝に伝授した「詠歌口伝」の核心 である。実朝がそれを律儀に踏襲したことは残された作品を見れば明らかだ。
最近歳のせいか滅多に驚かなくなったが、これには参った。実朝先生はお見通しということかと。
定家が実朝に授けた「詠歌口伝」(近代秀歌)の歌論の核心は「本歌取り」礼賛の様相を呈する。「昔の歌の言葉を詠み据えよ」というシンプルな諭しは、受け手の実朝のキャラや能力まで反映させているに違いない。具体的には以下。
事細かである。根本は昔の歌への敬意だ。盗作はバレたら困るのだが、本歌取りは気づいてもらって何ぼである。他者の歌の本歌取りに気づかないのは恥ずかしいと思わねばならない。要は場数だ。古今の歌に数多く触れて情景もろとも暗記せよと映る。でなければ他人の本歌取りに気づけない。でもって自分も本歌取りなどできない。
実朝はこれを真に受ける。贈ってもらった新古今和歌集に続いて「もっともっと」と所望する。そしてそこで繰り広げられる「本歌取り」の「取り採られ」を体感しつつ、自らもトライする。
一つだけ、実朝が定家の教えを守らなかったことがある。それは「同時代の歌人の歌を元歌にするな」という教えだ。まさに同時代もいいところの新古今和歌集の歌を次々と参照する。京都からはるかに離れた鎌倉在住だから空間を隔てていることが理由かもしれぬ。定家の苦笑いが目に浮かぶ。
ブラームスラヴの私にはこの「本歌取り」は「変奏曲」に通じるように見えて仕方がない。少なくとも先人へのリスペクトだけは疑い得まい。
なんだか幸せだ。
定家が実朝に贈った歌論書「詠歌口伝」の別名。その体裁は概ね下記の通り。
定家は「言葉は古きを、心は新しきを」と振りかぶる。古今集以前の歌を範とせよと説く。別の歌論書「毎月抄」では「初心者は万葉集を範とするな」と説いてもいるが、実朝に対してはそこまで釘を刺してはいない。「言葉は古きを」の具体策として「昔の歌の言葉を改めずに詠み据えよ」と諭す。これつまり「本歌取り」の推薦だ。
定家にとっては後鳥羽院を囲む和歌所の面々と語り合うなかで培った思いを箇条書きにした程度のことで、実朝に乞われてから考えたわけではあるまいが、贈られた10代の実朝は感激して真に受けた。
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