本歌取りの教え
定家が実朝に授けた「詠歌口伝」(近代秀歌)の歌論の核心は「本歌取り」礼賛の様相を呈する。「昔の歌の言葉を詠み据えよ」というシンプルな諭しは、受け手の実朝のキャラや能力まで反映させているに違いない。具体的には以下。
- 初句から結句まで全5句のうち2句程度に元歌の言葉の残すのが丁度いい。
- 始めのうちは元歌とは別の部立ての歌が無難。元歌が恋なら、本歌取りによって仕上がる自作は春とするなど。
- 同時代の歌人の作品を元歌にするな。
事細かである。根本は昔の歌への敬意だ。盗作はバレたら困るのだが、本歌取りは気づいてもらって何ぼである。他者の歌の本歌取りに気づかないのは恥ずかしいと思わねばならない。要は場数だ。古今の歌に数多く触れて情景もろとも暗記せよと映る。でなければ他人の本歌取りに気づけない。でもって自分も本歌取りなどできない。
実朝はこれを真に受ける。贈ってもらった新古今和歌集に続いて「もっともっと」と所望する。そしてそこで繰り広げられる「本歌取り」の「取り採られ」を体感しつつ、自らもトライする。
一つだけ、実朝が定家の教えを守らなかったことがある。それは「同時代の歌人の歌を元歌にするな」という教えだ。まさに同時代もいいところの新古今和歌集の歌を次々と参照する。京都からはるかに離れた鎌倉在住だから空間を隔てていることが理由かもしれぬ。定家の苦笑いが目に浮かぶ。
ブラームスラヴの私にはこの「本歌取り」は「変奏曲」に通じるように見えて仕方がない。少なくとも先人へのリスペクトだけは疑い得まい。
なんだか幸せだ。
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