出家百余名
1219年1月27日の実朝の暗殺。翌日には彼の妻が落飾し、御家人百余名が出家したと伝えれらる。
御家人百余名の出家が多いのか少ないのか軽々しく判断できない。頼朝や頼家の死去にあたってどれほどの御家人が出家したのだろう。室町時代や江戸時代、将軍の死去に接しての家来たちの動向を確認せねば確かなことは言えまいが、少ないとは思えない。
部下に慕われたいたのではと考えたくもなる。これが在位16年の征夷大将軍が27歳の若さで暗殺された衝撃なのだと思う。実朝の徳を慕ってと考えたら行き過ぎだろうか。
彼らは必ずしも鎌倉に留まらぬ。むしろ各地に散らばって長く実朝の霊を慰めたと考えたい。甲斐善光寺 に伝わる実朝像を造立した集団はそうした人々の末裔ではなかろうか。吾妻鏡が黙して語らぬ実朝伝承の担い手となっていたと心得たい。
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