承久の変考
日本史選択の受験生には必須。結果として明治維新まで約650年続く武家支配が確定した事件。朝廷と幕府のこの決定的な衝突は後鳥羽院が北条義時追討の院宣を出したことに始まる。準備万端やる気満々の幕府に無謀にも喧嘩を売ったとも評する向きもある。思えば普仏戦争だ。準備万端のビスマルク・プロイセンの挑発に乗ってまんまと宣戦布告をしたフランスに似ている。ビスマルクならぬ尼将軍の演説一発で、御家人が反幕府で結束してとも伝わるが、御家人たちからしたら単に勝ち馬に乗るための計算ずくかもしれぬ。院宣一本で誰も幕府に味方はするまいという後鳥羽院の目論見がはずれたと強調される。
歴史にたらればはないと承知で妄想する。実朝の暗殺がなかったら朝廷と幕府が果たしてここまでこじれたかどうか。金槐和歌集を見る限り、実朝は後鳥羽院への忠誠心を隠していない。実朝が定家から授与された新古今和歌集は事実上後鳥羽院の親撰だ。その出来栄え体裁、あるいは後鳥羽院御製を見て実朝は後鳥羽院のキャラを正確に読みとったに違いない。その上でなお後鳥羽院への忠誠心特盛の歌を数多く詠んだとなると、これを本心と解さざるを得まい。
金槐和歌集を定家経由で奏覧していに違いない後鳥羽院の心証はどんなものだったのだろう。心からの忠誠を隠そうとしない武家の棟梁の心証が悪いはずはなかろう。
もし暗殺がなければ、承久の変は起こり得ず、やがて実朝は京に上り、後鳥羽院に謁見。しばし京に滞在し和歌談義をしたに違いない。後鳥羽院のアンチ北条特盛な不意のご下問に、「御意」とばかりの気の利いた即詠で意気投合などということはあるまいか。やがては幕府を京都に遷すなどという密約まではいくまいか。
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