勅撰和歌集の狭間
まずは以下をじっとご覧いただく。
- 905年 古今和歌集成立
- 1205年 新古今和歌集成立(後鳥羽院親撰)
- 1219年 実朝没
- 1221年 承久の変
- 1235年 新勅撰和歌集成立(撰者・定家)
新古今和歌集の成立は1192年生まれの実朝13歳の年だ。翌年初期作を30首送って前年に成立した新古今和歌集を贈られたという時間関係だ。古今和歌集の成立からちょうど300年の節目に無理やり間に合わせた後鳥羽院の剛腕だ。万葉集から古今和歌集までは200年経っていないのに、
古今和歌集から新古今は300年というのも地味に驚かされる。当然、実朝は新古今には間に合っていない。
興味深いのはその先だ。次の勅撰和歌集「新勅撰」までは30年空く。平安な年月ではない。実朝自身が暗殺され、承久の変により後鳥羽院自身も流される。明治維新まで続く武士の世への転換点を含む30年だ。
新古今和歌集の編纂では後鳥羽院の片手となった定家だが、やがて見解の違いから対立するようになる。1220年昇進に関する不満を反映した歌が後鳥羽院の逆鱗に触れ、勅勘を受けて和歌界から干されることになる。
見ての通り、その翌年に承久の変だ。これで朝廷が破れて後鳥羽院が流されたことで力関係がリセットされたということ。後鳥羽院は定家への勅勘を解かぬまま流されたが、かえってこれはプラスに働く。アンチ後鳥羽院の北条氏からの受けは良いに決まっている。
だから次の勅撰和歌集の選者を任されるという寸法だ。
定家は実朝の歌を大量25首も新勅撰和歌集に採用することになる。後鳥羽院など承久の変で罰せられた人の作品が除去されたりもする中、実朝勅撰デビューであった。これは最終的に92首に到達するものの単一集への採用数としては最多だ。北条氏がこれを不快と思わなかったのか気になるところだ。
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