金槐和歌集
1213年22歳の実朝が師匠定家に贈った私歌集。「金槐和歌集」の「金」は鎌倉の「鎌」の金偏。「槐」は「大臣」をあらわす「槐門」に由来すると言われている。定家が同本を贈呈された時点ではまだ、右大臣になっていないから、この書名は後付けだとわかる。定家伝所は昭和4年に金沢の古家で佐々木信綱が発見した。晩年の作だと思われていた歌が22歳までの詠だとわかって騒然となったようだ。28歳で暗殺された実朝に晩年の作などありはせぬのだ。
実朝が師匠に贈るために自撰したと信じられている。春夏秋冬賀恋旅雑の部立ては勅撰和歌集に倣ったものだ。この部立てまでも実朝の手によるものなのか議論もあるらしいが、お歌はすべて22歳までに実朝が詠んだものだ。
定家の導きに従って次々と古い歌を吸収していった学習の成果が特盛だ。春夏秋冬から恋までの部に収められた歌は、先輩方の作品の本歌取りテイストに満ちている。春夏秋冬賀旅恋には古来定型がある。いくら葉桜が美しくてもそれを詠む人はいない。桜は「待つ」「愛でる」「散るを惜しむ」のいずれかでなければならぬのだ。京都を一度も出たことはなくても全国の歌の名所をきりりと読まねばならぬ。どんなセレブの旅行でも、草枕のわびしさと旅の不自由を歌わねば様にならぬ。どれほど恋こがれた意中の貴公子から告白されても、ひとまず「あちこちで浮名をききますわよ」と応じなければならぬ。どれほど好調な恋でも「秋風とともに飽きられて」と嘆き、待ちくたびれた様子をふりまかねばならぬ。だから女流歌人たちの膨大な数の恋歌を見て「恋多き女」などと称するのは見当違いということだ。このノリで僧侶だって恋の歌を詠む。いちいちそれを「破戒僧」だと真に受けていては本質を見誤る。これが歌の世界。これを実朝は万葉集、古今和歌集、新古今和歌集その他から驚くほどのスピードで学んだ。
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