山人や誰
春雨にうちそぼちつつ足引きの山路行くらむ山人や誰 SWV535
旅の部の大トリに鎮座する万葉調。舎人親王「足引きの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰」を踏まえている。本歌取りとまで言い切っていいかわからぬが。結句に疑問形を置く効果は温存して、散乱する「山」を整理した感じ。こういう歌を旅の部の末尾など目立つところに置くから遅れて来た万葉歌人などと評されるのだ。第二句が第四句を修飾するのは明らかながら間の第三句に枕詞が割って入るためにすんなりいかない。旅路の苦労の暗示かとも思う。
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春雨にうちそぼちつつ足引きの山路行くらむ山人や誰 SWV535
旅の部の大トリに鎮座する万葉調。舎人親王「足引きの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰」を踏まえている。本歌取りとまで言い切っていいかわからぬが。結句に疑問形を置く効果は温存して、散乱する「山」を整理した感じ。こういう歌を旅の部の末尾など目立つところに置くから遅れて来た万葉歌人などと評されるのだ。第二句が第四句を修飾するのは明らかながら間の第三句に枕詞が割って入るためにすんなりいかない。旅路の苦労の暗示かとも思う。
野辺分けぬ袖だに露は置くものをただこの頃の秋の夕暮 SWV516
結句に「秋の夕暮」が来てはいるもののこの歌は旅の部に置かれている。「秋の夕暮」は旅のわびしさを仄めかすツールに過ぎない。新古今風の「言わぬが華」とばかりの省略が大胆。「野辺分けぬ袖」とは「旅の途上にない一般人の袖」だ。「旅は野を分けて行く」という前提で詠まれる。旅に出ずに都にとどまっている人の袖でさえ涙の露で濡れるのに、旅の途中である私の袖はもっと濡れる秋の夕暮れだよという回りくどさ。だからこそ大胆な省略っぷりに意味も出てくる。「秋の夕暮」を結句に据える場合、その直前の第四句は「結句の説明」になっているのが常道。この作品もそうした構造には違いないけれど「ただこの頃の」とは突き放す感じ。SWV185の「ただ我がための 」に匹敵する大胆さではないか。そこに技巧を尽くさぬ実朝節だ。
涙こそゆくへも知らぬ三輪の崎佐野の渡りの雨の夕暮 SWV499
恋の部に収載される歌ではある。がしかしもはやそれは枝葉末節。師匠定家の詠歌「駒止めて袖打ち払ふ陰も無し佐野の渡りの雪の夕暮」が強烈にフラッシュバックする。その定家は万葉集・長忌寸奥麿「苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに」の本歌取りだ。定家が雪に変更しているのを実朝がまた雨に戻しているのが印象的。万葉、定家、実朝と連なる本歌取りの連鎖が芳しい。「三輪」が和歌山か奈良か諸説あるらしいけれど、そんなことは味わいには影響しない。少なくとも定家も実朝の2人はどちらにも行っていない。400年超の壮大な時間を一跨ぎのスケールを見れば見るほど、恋の部立てに無理やり押し込むこともあるまいにと思う。
我が恋は初山藍の摺衣人こそ知らね乱れてぞ思ふ SWV374
染色は、かなり有力な歌の素材だ。どんな布にどんな染料を使うのかは、かなりの関心事ということもあって人々の生活に深く浸透していた。この歌は恋の部に入っている。摺衣は超大雑把に申せば草木染か。模様が乱れるということから恋による心の乱れを暗示する。小倉百人一首の「みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえに乱れ初めにし我ならなくに」がすぐに思い出される。さらには染料の「初山藍」の「初」によって「初恋」が仄めかされる。現代の意味「人生初の恋」のことではなくて「恋の最初の頃」の意味だ。古典和歌における「恋」はいつも決まった進行をする。現代の感覚ではなじみにくい。なかなかこれといった恋の歌には巡り合わないけれど染物系の語彙のために耳に深く落ちる。聴く側の私の耳の都合だ。
千早ぶる伊豆のお山の玉椿八百万代も色はかわらじ SWV366
「千早ぶる」は「神」を導き出す枕詞と高校の古文の時間に習った。小倉百人一首では「千早ぶる神代も聞かず竜田川韓紅に水くくるとは」という業平のお歌にも登場する。母の得意札でもあった。本日は「伊豆のお山」にかかる枕詞として颯爽の登場だ。伊豆山権現がどれほど大切な場所かということがわかる。箱根権現と合わせて参詣することでさらにご利益アップということが「二所参詣」いうスローガンとともに将軍家に浸透していた。実朝の二所参詣は記録にある限り8回で、そのうちの1212年か1213年に詠まれたと推定されている。
続後撰和歌集に採用されている。
千々の春万の秋に永らへて花と月とを君ぞ見るべき SWV353
一つ前のSWV352で冬の部が終わった。ここから「賀」の部に入る。「賀」とは何かを寿ぐ歌ではあるけれど、初句にいきなり「春」を配置して四季の巡りをトレースすることも忘れない。泰然とした詠みっぷりだが同時に綿密な計算も透けて見える。「千万」「春秋」が二句にまたがって配置される漢詩風の立ち上がりに続いて、「花と月」という春秋の象徴がその順で整列する。君はおそらく後鳥羽院をさす。「君」が「ぞ」によって強調されて、天皇の長寿を祈念する内容で間違いあるまい。言葉にして歌にして献上することでその実現を祈るということだ。
こういうのをかっこいいと思うようになった。歳だろうか。
京極為兼はこれを「玉葉和歌集」賀の部に採録した。
はかなくて今宵明けなば行く年の思ひ出も無き春にやあはなむ SWV352
冬の部のラストで締める歌。これにて春夏秋冬の1年を締めくくる。夜が明けたら今年一年の思い出も一気にリセットされるのだろうとばかりに、なんだかやるせない感じが溢れている。基本姿勢として「行くもの去るものは惜しむ」ということ。対象は人、花、年という具合になんでもありだ。日本人の美意識にそれがあるから季節の節目節目でその都度感慨に浸る。四季では飽き足らなくて二十四節季とするだけで、歌のキッカケは6倍増になるという寸法だ。冬の歌なのに結句に春を偲ばせることで一回りを仄めかすこともわすれない実朝である。
昨日市のがん検診を受けたきた。
人生初の胃カメラだった。肺、前立腺、大腸、肝炎は職場の健診のメニューにあるから、今回メニュー外ということで決意した。退職したら市の健診の世話になるから今からお試しだ。
結果は異状なし。基礎疾患のデパートなので気をもんでいたがまずは一段落。
ブログを2033年まで続けるためにも大切だ。
身に積もる罪やいかなる罪ならむ今日降る雪とともに消ななむ SWV346
降る雪は積もる。そしてやがては解けて消える。自分の身に積もった罪も、雪と同じように消えて無くなればいいのにという節回しだ。しかしその罪の詳細を実朝自身が測りかねてもいる。人間どうせ大なり小なり罪を重ねているものだという諦めと覚悟。罪は重ねていることが前提とも読める。達観というにはしのびない。
紀貫之「年のうちに積もれる罪はかきくらし降る白雪とともに消えなむ」の本歌取りとされている。元歌にあった「白」を削除して、「罪」を重複させているせいか、実朝の方が重苦しいと感じる。もしかすると後ろめたさや思い当たる節があったのかもしれぬ。
雪ふかき深山の嵐冴えさえて生駒の岳に霰降るなり SWV336
SWV333から335まで定家、慈円、九条良経へのオマージュが連続した。案の定これもまた「冬深み外山の嵐冴えさえて裾野の柾霰降るなり」の本歌取りであった。第三句と結句が共通する。元歌にない地名の特定が目立つ。もちろん実朝は生駒に出向いたことはない。「霰降る」が描写の焦点。万葉時代の防人の歌には「鹿島の神」の枕詞になっている。鹿島の神は戦の神だから、防人の歌への登場は自然だし武士からの信仰が厚い。実朝はどうも「霰」が好きだ。一つ前のSWV335でも霰を降らせたばかりだ。東国鎌倉に住む征夷大将軍が詠めばそれなりの説得力となる。
そうそうこの度の元歌の作者は後鳥羽院だ。
「続後拾遺和歌集」に採用されている。
実朝は飛鳥井雅経と親交があった。小倉百人一首では「参議雅経」として「み吉野の山の秋風小夜更けて故郷寒く衣打つなり」が採られている。源頼朝と義経の対立の中で、雅経の父頼経が、義経との昵懇の間柄を咎められて鎌倉に下向させられたおりに父に同行して頼朝の知己を得た。頼朝から和歌と蹴鞠の才能を評価されたということだ。あろうこと鎌倉幕府重鎮の大江広元の娘を正妻に迎えている。帰京後は後鳥羽院からもかわいがられ和歌所の寄人に列せられた。
一方、彼は蹴鞠・飛鳥井流の始祖でもある。だから実朝の蹴鞠もそこそこの芸達者だと伝わる。歌と蹴鞠を軸に京都の公家たちと共通の話題があったと解したい。
蹴鞠を題材に採った歌が確認できないのは残念だ。
そうそう、いよいよ蹴鞠の世界大会がカタールで始まる。
見渡せば雲居はるかに雪白し富士の高嶺のあけぼのの空 SWV334
一昨日のSWV333は師匠定家へのオマージュであった。間違える余地のない明白なケースだった。本日もまたオマージュなのかと思うけれどかなり無理目。対象は慈円。小倉百人一首では「前大僧正慈円」とされて「おほけなく憂き世の民に思ふかな我が立つ杣に墨染の袖」が採用されている。私的歌人大好きランキングの第4位に定家を差し置いて食い込んでいる。本日のSWV334が慈円へのオマージュではないかと思い詰めるのは、慈円による「天の原富士の煙の春の色の霞に靡くあけぼのの空」を思い起こすからだ。結句だけの一致をもってワンチャンありかと思うだけではない。第三句「雲白し」が決め手だ。慈円の中で一番気に入っている「眺むれば我が山の端の雲白し都の人よあはれとも見よ」と一致するからだ。比叡山を「我が山」と断言する気迫は下手な武士顔負けだ。よって合わせ技で慈円認定する。
1997年に父を失ってから今日で丸25年となる。今や私はその父の享年を過ぎた。
展開中の実朝特集は生誕830年の記念にと始めた企画だが、実は父没後25年の記念碑でもある。父はブラームスよりは実朝を含む和歌特集を喜ぶだろう。父のお気に入りはおよそ下記。
私は下記。
ブラームスネタで一献酌み交わすよりはこちらのが盛り上がる。
山高み明けはなれ行く横雲の絶え間に見ゆる峰の白雪 SWV333
長いスラーがかかったような鷹揚な調子。そのスラーの先には師匠定家が居る。この歌に接した読者は、ただちに定家の「春の夜の夢の浮橋途絶えして峰に別るる横雲の空」を思い浮かべるに違いない。この定家の代表作の焦点「峰」「横雲」を切り取って季節を冬にすり替えた。本歌取りの定義を「元歌からの2句の借用」とするなら、これは本歌取りとは言えないけれど、このほのめかしが分からぬ読者層を相手にしてはいまい。さらには同時代の歌を元歌に取るなという師匠定家の注意に華麗なスルーをかまして臆する様子もない。師匠の恩に「仰げば尊とし」とばかりに歌を奉る三代将軍であった。
定家はこれを感じ取る。指導を守らぬ弟子を咎める様子もない。9番めの勅撰和歌集「新勅撰和歌集」の撰者となった定家はこの歌を採用して、実朝からのメッセージに受領印を付した。定家と実朝の子弟の絆を勅撰和歌集上に刻印したということだ。少なくともそう受け取る人たちが同和歌集の読者になっている。私もそうした読者群の端くれ末席に、かばん持ちとして連なりたいと心から思う。
降らぬ夜も降る夜も紛ふ時雨かな木の葉の後の峰の松風 SWV276
音が主役。時雨の音が松風と紛らわしいと説く。第三句末に置かれた「かな」は嘆くとまではいかぬ軽い詠嘆か。落葉後の峰とまで細かく分け入っていたり、「降る降らぬに関わらず」と否定と肯定を併記して「毎度のことながら」という感覚をさり気なく強調したりと様々な趣向を走らせはするもののせせこましくはならない実朝節。
20番目「新後拾遺和歌集」に収載された。
須磨の海人の袖吹きかへす潮風にうらみて更くる秋の夜の月 SWV215
遣唐使の廃止を機に国風文化がいっそう発展したと習った。ひらがなやカタカナの定着がその代表とされる。これによって成立した「漢字かな交じり」が現代まで続く日本語の表記の基本だ。漢字、ひらがな、カタカナを上手に使い分けることで、情報伝達がより効率化した。「漢字かな交じり」の定着とともに、漢字、ひらがな、カタカナの持ち場が慣例として固まっていく。そうした常識に照らして、漢字が来るべきところにひらがながおかれた場合、何らかのサインだとみていい。この度のお歌の第三句「うらみ」は本来漢字でよさそうなものだ。上の句の構造は、潮風によって須磨の海人の袖が翻っているから、袖の裏が見えるということで、「裏見て」という表記がすぐに思いつく。同時に初句が「須磨の海人」となると「須磨の浦」が連想され「須磨の浦を見て」とも、たすきがけになっている。2文字の地名であっても伊豆や隠岐では浦が浮上しない。
さらに下の句を見ると秋の夜が更けてゆくのを「恨む」という読み筋も浮上する。「うらみ」を漢字にしないことで「裏見」「浦見」「恨み」を同時に走らせる対位法みたいなものだ。潮風のせいで月が曇り、よく見えないままに月が傾いてしまうと嘆いているということがほのめかされる。だからどちらとも取れるようにひらがなになっている。「恨み」を導き出す序詞のようでいて、月を曇らす潮風という因果関係もある。「吹く」と「更け」をかすかに呼応させてもいる。
これぞ新古今という感じの技巧のてんこ盛り。それでも重たくならないのは潮風のせいかとも愚考する実朝脳だ。
きりぎりす鳴く夕暮れの秋風にわれさへあやなものぞ悲しき SWV198
初句に「きりぎりす」がおかれるだけではっとする九条良経補正がかかっている。小倉百人一首「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷き独りかも寝む」が思い起こされるというだけなのだが、読みすすめると第四句が焦点とわかる。「あやな」については既に言及 してある。夕暮れ時にきりぎりすが鳴いているだけで訳もなく悲しいという。結句に「秋の夕暮」がおかれる王道からわずかにポイントをずらす巧妙な詠みぶりだ。「秋風」「夕暮」「きりぎりす」を取り揃え、語順調整だけで同じ風情をひねり出す手練れの技である。その扇の要に「われさへあやな」がおかれているということだ。
おほかたにもの思ふとしも無かりけりただ我がための秋の夕暮 SWV185
秋と言えば夕暮れだ。名高い三夕の歌がある。
結句に「秋の夕暮」が置かれる。先行する第四句がその秋の夕暮れの形容になっている。これらは3首に共通する特徴だ。寂蓮と定家は第三句に「否定形」を据える。実朝はこれも忠実にトレースしているとわかる。特に寂蓮とは第二句後半「としも」まで共通だ。しかししかし三夕の歌はそれぞれ「山」「澤」「浦」というように具体的な舞台が設定されているのに対し、実朝はぐっと内面的だ。第四句「ただ我がための」が、結句「秋の夕暮」の形容というにはあまりに切実である。「ただ私を悲しませるためにやって来た秋」とまで思い詰める。これが22歳までに詠まれたとなるとただ事ではあるまい。
14番目の勅撰和歌集「玉葉和歌集」に採用されている。むべなるかな。
岩くぐる水にや秋のたつたがわ川風涼し夏の夕暮れ SWV147
念のために申すと「岩ぐぐる」ではない。結句が「秋の夕暮」ならば新古今時代の切り札だ。古来名歌が目白押しである。この歌、「秋」を夏に差し替えている。「たつた川」は現在の奈良県にある歌枕。紅葉の名所として名高い。だから「秋のたつた川」が自然にフィットする。しかも「秋が立つ」と地名の「たつた」が緩い掛詞の関係となれば、読み手側には秋が充満する。「川」の重複に臆する様子もなく、「川風涼し」とたたみかけておいて、結句で「まだ夏でした」とはぐらかす。意味的にも構造的にも複雑なのに、読んだ感じは悠然としている。
念のために申すと、実朝自身はたつた川を訪れたことはない。
いにしへを偲ぶとなしに故郷の夕べの雨に匂ふ橘 SWV139
古来橘の花の香りは、昔を思い出させるものとされてきた。この前提を知ると知らぬとでは味わいが変わる。「故郷」は現代のニュアンスとは必ずしも一致しないが、もはやそちらは些末だ。「ふるさと」という音が肝で、これは「降る里」を想起させ、さり気なく「夕べの雨」に連結する。12番目の勅撰和歌集「続拾遺和歌集」に採用されている。
葛城や高間の山のほととぎす雲居のよそに鳴きわたるなり SWV126
定家は本歌取りの元歌に同時代の作品を選んではならぬと説いた。実朝はこの点に限って、師匠の教えを守っていない。金槐和歌集には同時代の作品を元歌に採った本歌取りに溢れている。この歌の元歌は「ほととぎす雲居のよそに過ぎるなり晴れぬ思ひの五月雨の頃」である。なんと作者は時の上皇、後鳥羽院だ。御製からは鳴き声は聞こえない。初句にほととぎすを配置してはいるもののそれは鳴かずに飛び去って、晴れぬ思いを後に残す。五月雨の頃の憂鬱な気分をあらわすツールである。鳴いてなんぼのほととぎすを鳴かずに去らせるという細かい細工が前面に出ているのに対して、実朝は「やっぱり鳴いてなんぼでしょ」とばかりに鳴き渡らせる。しかも場所は高間の山とまで指定する。実朝は正攻法に徹している感じ。上皇の歌を元歌に採る征夷大将軍であるけれど、まったく臆していない。これを金槐和歌集に混ぜて定家に贈ってしまう鷹揚さは一体どこから来るのだろう。
同時代の上皇の作品を元歌にされては、さすがに勅撰和歌集には採用されない。空気の読めぬ実朝である。
惜しむとも今宵明けなば明日よりは花の袂を脱ぎやかへてむ SWV116
詞書には「三月尽」とある。旧暦3月末日のことで、同時に春の終わりを意味する。金槐和歌集・定家所伝本によれば、本歌をもって春の部が終わる。「いくら春を惜しんでも、明日からは夏服ですわ」と気持ちのリセットに軽い嘆きも通わせる。とはいえ「花の袂」という言葉がやけに華やか。現代語訳不要のシンプルなモノローグ。これを春の部の終わりに楔を打つように据える配置まで鑑賞の対象と見る。
行きて見むと思ひしほどに散りにけりのあやなの花や風立たぬ間に SWV083
「あやな」は形容詞「あやなし」の語幹などと品詞分解に走っても味気ない。「あやなし」が形容詞なら「あやなき花」とすればよさそうなものを「あやなの花」とした感覚を味わいたいと思う。「見に行ってやろうと思っているうちに風も吹かぬうちに散ってしまった理不尽な花よ」くらいの意味で、「風で散ってしまったのならともかく」というニュアンスもほんのり感じ取るべきか。語彙も表現も古歌に前例があるにはあるのだが、それらに悠然と寄り添ってなお際立つ実朝節である。
春深み嵐もいたく吹く宿は散り残るべき花も無きかな SWV82
「春深み」の「み」は受験生必須。形容詞に付き従って原因をあらわす。「春が深まったので」となる。小倉百人一首では「瀬を早み」「風をいたみ」がすぐに思い起こされる他、新古今和歌集には3首目「山深み」があらわれる。金槐和歌集には「春深み」で始まる歌が5首もあって「秋深み」と「冬深み」の2首を引き離して季節別ではトップ。「夏深み」は頻度の上ではやや落ちる気がする。散る花を惜しむ春の深まりだけが古来愛されてきたということかもしれぬ。
山桜今はの頃の花の枝に夕べの雨の露ぞこぼるる SWV80
「今はの頃」が気に入っている。「今はの際」でもわかる通り「お別れの時」をあらわす。桜が「今は」と別れを告げる時期、つまり散り際ということだ。枝に露がこぼれると言いまわして涙を想起させる。散るを惜しむ歌。古来桜の歌われ方としては典型だ。咲くを待つか、散るを惜しむのが常道というものだ。仮に満開であっても「いつ散るか」と気をもまねばならない。
先日、銀座の王子ホールで大好きなビオンディ先生の演奏会を聴いてきた。一昨年、コロナの影響でキャンセルになっていたリベンジ 。イタリアバロックの合奏協奏曲集ということで以下のプログラムだ。
<休憩>
いやいや凄かった。四季は春夏秋冬を掲げる4曲なのだが、曲間の拍手拒否。「緊密なアンサンブル」と申すはあまりに奔放。ヴァイオリンとヴィオラが腰かけていなかったこともあって、見た目は自由に弾いているように見えて呼吸はピタリということ。四季は第一と第二のヴァイオリンが3で、ヴィオラが2,チェロ2,コントラバス1、チェンバロ1、シュリモー1というシンプルな編成。CDよりは圧倒的に生がいい。視覚に飛び込んでくる彼らの弾きっぷりはCDではどうにもならぬ。シュリモーが、言い知れぬ説得力で、時にチェンバロを沈黙させて通奏低音を仕切る。春の2楽章の犬になりきるヴィオラのソロの大迫力は生の醍醐味。秋の2楽章は事実上のチェンバロ独奏。これまた事実上弾き振りのビオンディさんは、総奏に埋没するときは、客席に背を向けている。ソロの度にこちらを振り向いて弾いてくれるから、トゥッティとソロの対比が視覚的にも念押しされる。「正しい音がお知りになりたい方は楽譜をご覧ください」的な弾けっぷりであった。夏が終わったとき鳥肌が立った。そりゃイタリアだから物思いの秋にはならない。やっぱり四季は冬だわと思っているうちにあっという間に終わってしまった。
アンコールが3曲。冬の1,2楽章に誰かの曲が挟まっていた。
山風の桜吹きまく音すなり吉野の滝の岩もとどろに SWV071
詞書には「屏風の絵に」とある。実朝本人は静岡県の三島以西には行ったことがないから、吉野の実景を知らない。絵にかいた景色を見て読む歌「屏風歌」というジャンルの作品だ。屏風絵に音や香りあるいは風は描けないから絵で補うという趣向だ。「とどろに」は大好きな言葉。SWV641の絶唱「大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも」の2句目の登場が名高いけれど、結句に据えるこちらもかなりな説得力。古来名高い「吉野の桜」をわき役に押しやる迫力だ。古典和歌の伝統にしっかとよりそってなお、個性がほとばしる。
水たまる池の堤のさし柳この春雨に萌え出でにけり SWV025
実朝テイストの根幹とも目される万葉調のほとばしり。「池」の枕詞に「水たまる」と据えることに加え、4句の「この春雨に」という言い回しも万葉時代に好まれたものだ。桜や梅よりはややマイナーな素材「柳」をさらりとLeggiero気味に流す感じ。
石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出ずる春になりにけるかも 志貴皇子
私の和歌史では、百人一首に続く万葉集ステージの扉を開けた、志貴皇子のこのお歌を思い出す。「の」を3つ連ねて生み出されるリズミカルな調子。その描写の焦点は「萌え出」にあるという構造。「本歌取り」とまでは、のしかからぬ、暗黙の呼応かとも。
今朝見れば山もかすみてひさかたの天の原より春は来にけり SWV001
「金槐和歌集」の巻頭歌ということで栄えある「SWV001」だ。見ての通り春の歌。それも立春なのだが、詞書には「正月一日詠める」とある。もしかして旧暦1月1日と立春が重なる「朔旦立春」か。月の運行をキーにした旧暦と、太陽の運行をキーにした二十四節季で新年が一致するという縁起のいい現象だという。発生は30年周期とも言われていて、次回は2038年らしい。これらを信じて数遊びを試みる。2038年から30年ずつ遡ってみる。実朝6歳の1198年がヒットする。次の1228年だと実朝没後になる。いくらなんでも6歳の作とは思えない。現実かどうかは別として、歌集冒頭を寿ぐ意図で配置したと思わねばなるまい。むしろ、この配置は実朝本人の意思か、定家の指図かが気になる。
勅撰和歌集に倣って春の部立から始める端正な構造。直近の手本、新古今和歌集冒頭を見てみよう。
み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり 九条良経
ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香久山霞棚引く 後鳥羽院
「新古今和歌集」冒頭がこの二人でうれしい。彼らは実朝とともに、私の歌人大好きランキングでベスト3を構成する。良経の歌と2句と結句が共通する。「本歌取り」というにはあまりに鷹揚で、あっけらかんな感じがする。「同世代の歌を元歌に取るな」という教えがどこ吹く風とばかりに春の初めのほんわかした気分をほのめかすために大胆に引用したイメージ。先達の二人は具体的地名を出しているのに対し、実朝は鷹揚に「天の原」とふりかぶる。スラーが長い感じ。変ロ長調弦楽六重奏曲の出だしを思い出す。
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