うらみ三態
須磨の海人の袖吹きかへす潮風にうらみて更くる秋の夜の月 SWV215
遣唐使の廃止を機に国風文化がいっそう発展したと習った。ひらがなやカタカナの定着がその代表とされる。これによって成立した「漢字かな交じり」が現代まで続く日本語の表記の基本だ。漢字、ひらがな、カタカナを上手に使い分けることで、情報伝達がより効率化した。「漢字かな交じり」の定着とともに、漢字、ひらがな、カタカナの持ち場が慣例として固まっていく。そうした常識に照らして、漢字が来るべきところにひらがながおかれた場合、何らかのサインだとみていい。この度のお歌の第三句「うらみ」は本来漢字でよさそうなものだ。上の句の構造は、潮風によって須磨の海人の袖が翻っているから、袖の裏が見えるということで、「裏見て」という表記がすぐに思いつく。同時に初句が「須磨の海人」となると「須磨の浦」が連想され「須磨の浦を見て」とも、たすきがけになっている。2文字の地名であっても伊豆や隠岐では浦が浮上しない。
さらに下の句を見ると秋の夜が更けてゆくのを「恨む」という読み筋も浮上する。「うらみ」を漢字にしないことで「裏見」「浦見」「恨み」を同時に走らせる対位法みたいなものだ。潮風のせいで月が曇り、よく見えないままに月が傾いてしまうと嘆いているということがほのめかされる。だからどちらとも取れるようにひらがなになっている。「恨み」を導き出す序詞のようでいて、月を曇らす潮風という因果関係もある。「吹く」と「更け」をかすかに呼応させてもいる。
これぞ新古今という感じの技巧のてんこ盛り。それでも重たくならないのは潮風のせいかとも愚考する実朝脳だ。
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