四季と田園
中学校の音楽の授業でヴィヴァルディの「四季」を習う。鑑賞の教材だった上に、朝夕の掃除の時間のBGMが「四季」だった。楽章冒頭だけの標題にとどまる田園に対し、四季はソネットの進行を音楽でトレースするという手の込みようだ。これが耳に刷り込まれていた中学生の私はベートーヴェンの田園を知るに及んで、大問題に直面することになる。田園をロマン派以降に出現する標題音楽の始祖であるという直感にとって、時代的に数十年さかのぼるヴィヴァルディの「四季」は、すこぶる都合が悪いのだ。
結果から申して、田園が自然描写音楽の始祖という私の直感が大間違いだったということだ。
ドイツバロックを少々かじれば、当時から自然を器楽作品で描写したケースは頻繁にある。ビーバー、シュメルツァーなどヴィヴァルディよりさかのぼる世代から珍しくなかった。ヴィヴァルディでさえ始祖ではないどころか、そうした描写音楽はドイツのヴァイオリン音楽に無視しえぬ頻度で現れる。自然の描写には、チェンバロやオルガンあるいは人の声よりも器楽の方が向いていますよと言わんばかりだ。
恥ずかしながら、ベートーヴェンは田園交響曲で自然描写を交響曲に導入したという点でのみ先駆者であったととらえなおせたのはつい最近のことだ。
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