歌物語テイスト
恒例の「お盆のファンタジー」は昨日までの3日で本年分を終えた、めでたく50本に達したこともあって、このほど新趣向に挑んだ。それが歌物語である。古典文学の1ジャンルで、代表作はと問われれたら「伊勢物語」と答えておけば大滑りはしないと思われるが、正確な定義となるとやや手に余る。源氏物語だって進行の要所に歌が配置されているし、日記文学にだって歌が出てくることもある。
この度源実朝を扱ったお盆のファンタジーには3日の間に歌を6首配置した。
- 1 大麦の香りほどろに立つる泡盛りて弾けて揺れて飲むかも (実朝師匠)
- 2 麦かもす黄金立ちたるギヤマンに揺り越すほどぞ泡もほどろに (私)
- 3 毒消しの験と麦酒飲み干して心慰むこの夕べかも (ブラームス先生)
- 4 南蛮の楽の匠と思ひきや和歌の浦にも立ち慣れにけり(実朝師匠)
- 5 しろがねの槐と敢へて名付くるにためらはぬ我右府の愛弟子(私)
- 6 やよ励め水と清きを競ひつつ山と高きを争へや君 (実朝師匠)
<1> ビールの泡を見た実朝師匠の驚きの反応。もちろん師匠の絶唱「大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも」を本歌取りしたものだ。実朝師匠自身の歌という設定のため、本歌取りの定義をはずれるが、「大海」を「大麦」に、「波」を「泡」にすり替えたという趣向だ。(えっへん)
<2>師匠の即詠を受けた弟子である私が慌てて唱和した感じ。古典和歌としては「ギヤマン」はいささか浮くけれど酒の席の即興とあればペナルティキックとまでは行くまい。結句「泡もほどろに」を指して師匠が「旅人風」と言ってくれたのはお咎めなしのサインだ。万葉集の大伴旅人作「淡雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも」を踏まえた軽い本歌取りであるとわかってくれる師匠という設定。もちろん「淡雪」の「淡」は、ビールの「泡」とかけられているのは、師匠も私も脳内共有を終えている。「淡は泡でしょ」(どやっ)
<3>あっとおどろくブラームス先生の詠作。こちらは直前のやりとりが大伴旅人風だったことを受けて、その息子大伴家持の「我が宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも」を軽く念頭に置いている。当然それに気づく実朝師匠だ。(ぼーぜん)
<4>はブラームス先生の即興の作やお歌の知識に実朝師匠が心底驚いた様子。「南蛮」は「異国の」くらいのニュアンス。「楽の匠」と合わせてブラームスのことを指す。「異国の音楽の巨匠とばかり思いこんでいたけれど、どうしてどうして和歌にも精通されていますね」くらいのニュアンス。かつて慈円が父頼朝をほめた歌を記憶している実朝という含み。(きりっ)
<5>私が未来の自分の歌集に「銀槐和歌集」と名付けたいという申し出を快諾してくれた喜びを込めた感じ。「右府」は「右大臣」のことで鎌倉右大臣・源実朝を指す。(サクッ)
<6>帰りがけに私に気合を注入する師匠の歌。「精進しなさい」と言い置いて帰って行ったということだ。(ウルッ)
いやいや楽しい。本歌取りをメインに据えて推進力を借りた感じ。本歌取りは古典和歌の根幹をなす技法ながら、実際の歌集では、歌の前後の詞書きにそのことが記されることはない。「誰それのあの歌を本歌に取りしています」などとやらぬのがお約束。野暮というものだ。今回一連の種明かしは例外中の例外である。本来そんなことをするのは恥ずかしいことなのだ。当時は詠み手も受け手も先行する膨大な歌の知識が十分あったから、野暮は言わぬのがお約束だった。学習目的でのみなんとか許される感じ。
この6首すべて私の自作である。歌物語の作者は進行に合わせて登場人物が詠む歌を自作せねばならない。「お盆のファンタジー」に歌物語テイストを付与しようと思ったら、それは歌の自作を意味する。当然のことながら緊張した。
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