お盆のファンタジー51
実朝先生とブラームス先生はいつしか本歌取りを話題にしていた。先人の作を踏まえて自作に織り込む技法のことだという実朝先生の説明を聞いたブラームスさんの目がきらりと輝いた。ビールを飲みほしてほっと息をついたあと「変奏じゃな」とつぶやく。
本歌取りは盗作とは完全に一線を画する。盗作は引用元がばれると困るが、本歌取りは「知っているかなあ」とばかりに読み手に投げる。歌い手と読み手どちらの側にも膨大な数の過去の作品をそらんじているという状況が根底にある。読み手はそりゃ誰それのお歌の本歌取りだと見破ったうえで、ならではの歌を返す。返す側も返された側もそれで満足する。
「根底にあるのは先達への敬意さ」という実朝先生の説明で我が意を得たりとブラームス先生が立ち上がった。本歌を構成する様々な要素のうち、どことどこを残すか、あるいはどことどこを変えるかの着眼こそが肝じゃなとしたり顔のブラームス。
「南蛮の楽の匠と思ひきや和歌の浦にも立ち慣れにけり」とは実朝先生の詠。
「残念ながら」とブラームスが切り出す。「ドイツ語という言語の枠組みではどうにもならぬ」
一つは漢字と仮名。一文字にひとつひとつ意味のある漢字がどうにもすごい。そこに一文字一音の仮名が加わって表現が格段に深まるようじゃの。と続ける。「してその心は」と実朝先生。「それはじゃ」「膨大な数の同音異義語の存在だ」とブラームス。
たとえば昨日話題になった「泡」と「淡い」じゃ。見ての通りそれは名詞と名詞にとどまらぬから、「秋と飽き」「松と待つ」もかとブラームス。こうした組み合わせの数だけ「掛詞」が成立するじゃろ。ドイツ語ではそうはいかん。表向きの意味とは別の意味合いを裏で走らせることが出来る。序詞、掛詞、歌枕、縁語など総動員すれば二重三重に含みを持たせることも可能じゃ。まさに対位法じゃなと。
あとは文末決定性。日本語では最終的な意味の決定が文末になる。だから意図的に文末まで言わない体言止めが技法として成立するんじゃな。雄弁一方かと思うと言わぬが華の文末省略で、結論を受け手の感性に委ねるとでもいうかの。
あれよあれよという間に二人は意気投合している。「わしも作曲を習わねば」と真顔の実朝先生だった。
「まずは変奏曲になさいますかな」とブラームスがお茶目なウインクをかました。
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