8月終わる
5日に次女が我が家を巣立ってから25日たった。その間次女の部屋跡地マイルーム化周辺の話題に終始した。台風やら線状降水帯やらで大変な報道が相次ぐ中ではあったが我が家はほぼ平常通りの暑い夏を過ごした。
なんといってもCDプレイヤーの購入のおかげだ。所有CDすべてをもう一度聴き直したくなる衝動に駆られている。
残りの人生に音楽とブログは欠かせぬと再確認ができた8月であった。
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5日に次女が我が家を巣立ってから25日たった。その間次女の部屋跡地マイルーム化周辺の話題に終始した。台風やら線状降水帯やらで大変な報道が相次ぐ中ではあったが我が家はほぼ平常通りの暑い夏を過ごした。
なんといってもCDプレイヤーの購入のおかげだ。所有CDすべてをもう一度聴き直したくなる衝動に駆られている。
残りの人生に音楽とブログは欠かせぬと再確認ができた8月であった。
マイルーム取得計画の根幹として念願のCDプレイヤーを買い求めて、所有するCDを片っ端から聴き直している中、思わぬ収穫に打ち震えている。
それがオルガンだ。オルガン作品のCDを再生して唖然とした。よく鳴るのだ。期待以上。
こりゃたまらんとばかりにあれこれ聴き直している。言葉でうまく説明できないのがもどかしい。オルガン特有の音圧が克明に再現されるとでも申すのが関の山だ。
ほぼバッハを聴くことに等しい。やはりバッハだ。
本日この記事をもって、ブログ開設から連続記事更新が6666日となった。毎度毎度の区切り記事で恐縮だが、やはり節目は祝っておきたい性格だ。ブラームス生誕200年のゴールまであと3586日。今やたったそれだけかという感覚だ。備蓄記事が200本少々あるので、記事をひねり出すのもあと3000本少々でいいことになる。今まで公開した記事の半数でいいのだ。
結婚のため我が家を巣立って3週間。一昨日次女が戻ってきた。引っ越しの積み忘れを取りに来るという名目だが、そんなことはどうでもよろしい。さびしくて青息吐息だった母は数日前からいきいきと準備をして待った。
土産話が尽きない。ほぼ主婦同士の会話になっている。
話だけで腹いっぱいの1泊2日だった。
北宋の詩人・黄庭堅がお香の功徳を詩にしている。
お香の効能を漢字40文字で言い表している。四文字熟語10個という見た目の美しさが際立つ。お香の功徳はもちろんだが、漢字の機能性まで明らかとなる。
昔の人の知恵の結晶たる10箇条ではあるのだが、今あえて私が1つだけ加えたい。それは「お香が音楽鑑賞を邪魔しない」ことだ。
次女の部屋跡地マイルーム計画の根幹が音楽鑑賞環境の充実にあることは既に述べてきた。「部屋に物が少ない」をコンセプトに徐々に進行中だ。このうち無視できぬ要素が「お香」だ。子供たちは「煙たい」などとネガティブだったが、マイルームになれば遠慮はいらぬとばかりに、工夫にも熱が入る。
まずは掛け香。ドアノブに掛けるだけ。畳のヘリの生地を袋状に縫った中にお香が入っている。場所を取らぬ工夫ということだ。
こちらはにおい袋。
こちらはオーソドックスな線香。気分でさまざまなヴァリエーションがある。
もっとも大事なこと。お気づきだろうか。お香はリモートにはなじまない。音声や画像は「Zoom」など昨今のリモート系ソフトで遠隔でも共有が可能だが、香りはどうにもならぬ、言葉で説明も出来ぬ。
同じお香を焚いても、その日の気候やこちらのコンディションで微妙に味わいが変わる。合成香料を慎重に回避して天然ものに特化すれば、楽しみは無限だ。
サッカーチームを応援する人たちをサポーターと呼ぶ。応援するチームによってサポーターに名前が付けられているケースがある。
イタリア一部リーグのACミランのサポーターは「ミラニスタ」と呼ばれている。都市の名前である「Milan」に「-ista」が加えられたのだ。つまり「-ista」がサポーター語尾である。同じミラノを本拠とする有力チームインターミランのサポーターは「インテリスタ」と呼ばれる。「Inter」を語幹に据えて「-ista」を加えたことは明らかだ。これがユベントスになると「Juventino」になるというから、その場合のサポーター語尾は「-ino」だ。アンダンティーノでおなじみだ。どんなサポーター語尾が付くかは、語幹によって決まるのだと思う。
作曲家の熱烈なサポーターも同様の手法で表される時がある。ワグネリアン、シューベルティアン、モーツアルティアンの類だ。さて当然の疑問。語幹がブラームスだったらどうなるのだろうか。
ドイツ語でこの手の言い回しはあるのか知らないが、この中のどれかで違和感が無い。素朴な疑問。ドヴォルザークやバッハ、果ては源実朝はどうするのだろう。
記事のネタ探しはしばらくは続く。けれども悲観はしていない。私自身の心の中に「もっとブラームスを知りたい」という気持ちがある限り大丈夫だ。
ブログの方針として「ブラームスネタ限定」を標榜しているが、このところ風向きが変わってきている。「ブラームス限定」を無闇に厳格に考えるより、視野が広がる。それが結果としてブラームスへの理解を深めることに通じると感じる。ベートーヴェンはもちろんそれが源実朝であってもだ。
知識の裾野を拡大することで一層ブラームスが浮かび上がる。私はもっともっとブラームスを知りたい。
今年2023年が「私のクラシック音楽鑑賞50周年」だった。2月には更新するマイカーにCD再生機能がないと判明して、常用USBの作成に踏み切った。やがてそれが所有するCDの再点検に発展した。そして8月に次女が結婚のため家を巣立って、次女の部屋跡地のマイルーム化を進めた。上等なCDプレイやーを買い求めた。
「音楽鑑賞歴50周年」「マイカー更新」「次女結婚」が今年2023年に一度にやってきた。これは偶然なのだが、家庭での音楽鑑賞環境の充実という意味で、空前の変革となった。
マイルーム化計画の根幹にと買い求めたCDプレーヤーが嬉しく鳴ってくれる。自室化したおかげで、周囲に気兼ねなく音を出せるので従来より音量を絞っていない。演奏がリアルにクリアに聞こえる原因は、そこにもあるのかと考えてもみた。
けれども従来のプレイヤーで音量を上げてもやはりそうはならない。同じCDを新旧プレイヤーで聴き比べてみると、ほどなく音量の要因は微細だと気付かされる。従来のプレイヤーで音量を上げてもただうるさくなるだけだ。
ピアニシモからフォルテシモまでの幅と圧倒的な余裕感。これを世の中ではダイナミクスレンジとでも言うのだろう。この歳になって実感させられるとは。
一昨日彼を連れて長女がやってきた。夏休みの旅行の土産を渡しにというのは名目で、次女が去ってさびしくしているおばあちゃんを見舞いにきたのだ。
猛暑日ものかはのにぎやかな一日、だらだらと近況報告が続いた。夕食のカレーライスを楽しんでから去りがたく帰っていった。
ばあちゃんには、ありがたい一日となった。
私の在宅スペースとマイルーム化が進む部屋は隣りあわせだ。安普請のドア一つを隔てるだけ。
マイルームで新規購入のCDプレイヤーを使って再生した音が、ドアを隔てて漏れ聞こえる。気のせいかこれがまろやかでいい音である。何でだろう。丸みというか温かみというか。在宅勤務中のながらモードにしてはもったいない。かといって過剰にのめり込むのも気が引ける。
どうしよう。
次女の部屋の跡地マイルーム化の真っただ中。新たに購入したCDプレイヤーの機能を試すため一通り再生している。
<ブラームス:ヴァイオリン協奏曲> シェリング独奏のこの演奏はたいてい何を買ってもいつも再生のトップ。
<バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータニ短調> これもシェリング。驚いた。オケの曲よりずっと違いが判る。隣で引いてくれているようだ。
<バッハ:ゴールドベルク変奏曲> グールド。いやいやこれも鮮やか。うなり声が妙にリアル。
<ヴィヴァルディ:ヴァイオリンソナタ集> ビオンディのヴァイオリン。これもクリアでリアル。
<シューベルト:歌曲集> ディートリヒ・フィッシャーディースカウ。サプライズ。隣で歌ってくれているよう。
<ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲「アメリカ」> アルバンベルク四重奏団。チェロが深い。なんたって深い。
<ブラームス:交響曲第4番> カルロス・クライバー指揮ウィーンフィル。第二楽章が念入りに響く。
<ヴィヴァルディ:四季> ビオンディ。これもまたきれい。ソロのバックでチェロが延々と引き延ばす低音の色つや。
<バッハ:無伴奏チェロ組曲> マイスキー。こりゃすごい。
<バッハ:コラール集> ニコルマット指揮ヨーロッパ室内合唱団。いやはや人の声もまたよろし。
<バッハ:アンナマグダレーナバッハの音楽帳> レオンハルト盤。アメリンクの美声が透き通る。
ジャンルや編成の大小をできるだけ網羅して駆け足の鑑賞だったけれど、なんだかもう嬉しくて。こんなに違うのか。この先きっと何を聴いても発見があるだろう。
記事「ウッドコーン」で言及したCDプレイヤーの話。
セッティング後最初に再生するCDはずっと前から決めていた、ドラティ指揮シェリング独奏のブラームスのヴァイオリン協奏曲だ。
最初の音が鳴りだした瞬間にのけぞる用意だけはしていたが、そこは、さほどではなかった。しかし聴き進むにつれて「おいおい」となる。ベースの響きが従来と各段の差。ソロの細かい技巧がクリアというよりリアル。
自室ということもあって、あまりヴォリュームを気にしなくていい解放感も微妙に影響しているかもしれない。
何よりも気に入ったのが外観。ウッドのおしゃれな質感は、このためにと買い求めた座卓の質感とえらくマッチする。
記事「清掃という特効薬」で落ち込む母に清掃を処方する案が浮上した。気がまぎれるということだ。そいえば先日、ご近所から鶏頭のお花を大量にいただいた。お花に限らずおすそ分けはなごむ。いただいた花を見て母の顔が輝いた。さっそく家中の花瓶をかき集めて生けている。足取りも軽くだ。無料の上にきれいだとテンションがあがるようだ。
8月は半年に一度骨粗しょう症の検査がある。半年前に比べて劇的に改善していたらしい。そんな話聞いたことがないけれど、ふむふむとうなずく。歳相応に衰えてゆくばかりで改善はしないものという一般論を飲み込んで母の話をきく。なんでも82歳の平均値付近に相当する数値らしい。先生からそれを説明されて上機嫌なのだ。6歳若返った気になっているのだ。「家事が適度な運動になっている」と説明されて我が意を得たりなのだと思う。
娘らが来たらきっと嬉しそうに話すのだろう。
次女の部屋跡地のマイルーム化が進行中だ。あれこれ忙しい部屋に母が顔を出した。「普段掃除できない個所をこの機会にやったら」という提案をしにきたという。次女が去ってふさぎ勝ちな母の意外な言葉に、即同意した。気が変わらんうちにというのりだ。
普段家具に隠れている場所の掃除、カーテンレールの上、内外の窓ふきなど。とりわけ念入りなのがサッシの溝だ。ペットボトルに水汲んでこいとか、使い古しの歯ブラシや綿棒、爪楊枝が要るとか、濡れティッシュある?とか事細かである。サッシの溝の複雑な機構に知悉している感じ。歯ブラシで細部を漉しとったあと、爪楊枝や綿棒で積もったほこりをほじりだす。いつ以来かという泥の山を水で流す。
あれ?
なんだろう。次女が去って以来青息吐息だったのが、元気である。ピカピカになった部屋を眺めて次のネタを探す感じに暗さはない。
その手があったか。
次女が嫁いで10日。母と私と長男だけの家族構成になって10日。生活の枠組みが変わった。長女の結婚の際にも少々感じたが、今回の方が差が歴然だ。
慣れてゆかなばならない。娘たちの幸せのため。新しい家庭で娘らが家族の太陽になるということ。
そして残された我々もまたこの枠内で幸せに暮らすということだ。そう、私の母は今もって太陽であり続けている。
CDプレイヤーの話だ。従来在宅スペースに置いたデスクの上にちょこんと載せていた。在宅スペースは2階の共有スペースの一角であるうえ、どうせ在宅のながらモードということで、ラジカセに毛の生えた程度の代物だった。あろうことか我が家で一番良い音がするのはマイカーの中というありさまだった。次女の結婚による大模様替えの根幹と位置付けるお買い物だ。
今年初めに次女の結婚が決まると、最大の関心は、いつ家を巣立つのかだった。つまりそこで次女の部屋の跡地をマイルームにしようという壮大な野望が脳内に浮上した。マイルームと申しても6畳弱のスペースであるうえに、ベッドもある。可処分面積は大きくない。コンパクトと音質の二兎を追いかけてリストアップしたのがヴィクター社のEX-B5という機種。ネット上での評価は高い。がしかしお財布に優しくない価格だ。これが企業なら固定資産になるレベル。
ここは残りの人生に聴く音楽の音質の確保と自らに20回言い聞かせて、清水の舞台からパラシュートなしで飛び降りた。
新しく自室が確保されるにあたっては、ステレオの購入がそのプランの柱だが、そのステレオをおく台も重要な案件だった。
某古ショップをうろついてた3月に、店頭で見つけてひとめぼれして即買いした座卓がそこに収まった。3月に買いはしたものの、次女が嫁いで部屋が空くまでは置き場に困る。お店にお願いして5か月間預かってもらっていた。次女の引っ越しの翌日いそいそと取りにでかけて、さっそくに自室に置いた。
色といい、高さといい、質感といい、機能といい、寸法といいどれも満足。木材の種類は不明。おそらく国産。30年から50年位前の品物だとか。脚に施された細工も気に入っている。
ひとまず座卓ということなのだが、実際に私が座ってデスクワークするには低すぎる。ステレオの台とは目的外使用ながら、おさまりがいい。
大満足の10000円だ。
私が妻を亡くしたときから、母の第二の子育てが始まった。私の子供たち1男2女の母代わりとなった。私には弟しかいないから女の子を育てるのは初めてだった。
あれから27年、次女を嫁がせた母がつくづく、娘を嫁に出すとはこういうことかと気づかされたという。息子たちが嫁をもらったときとは雲泥の差だという。「私は昔の人間だから」と慎重に前置きしながら「娘たちは結婚することでうちのものではなくなる」という感覚が非常に強いのだそうだ。64年前自らが亡き父に嫁いだときでさえ、感じたことのない感覚らしい。「世の中の花嫁の母はみなそうなのか」「母親代わりの祖母だから」なのかと自問が続いているという。
結婚のため次女が家を出てから1週間が経過した今も茫然としている状態だ。
見守っていようと思う。
次女の結婚をきっかけに始まった大模様替えだが、子供たちに昔買ってやったおもちゃの処分が課題だった。
娘たちのお人形、ボードゲーム、ミニカー、プラレールなどなど。近所の買い取りショップに持ち込んだ。買い取り価格はあきらめていたが、嬉しい見込み違いがあった。総額1万5千円になったのだ。これはひとえにミニカーのおかげ。1台50円で買い取ってもらえた。つまり300台ほどあったということだ。
どうにもかさばって仕方がなかったが、スペースが生まれたほかに望外の臨時収入となって長男の懐に吸い込まれていった。
今までは在宅勤務用のデスクにささやかなCDプレーヤーを置いていた。なんせ通路なので音量にも気遣いが要った。今度は初めて自室になる。横になって音楽を聴けるようになる。
そして長男だ。サッカーのユニホームやらタオマフの収集が趣味だが、置き場に困っていた。それというのも自室の収納に家族の衣類が多数入っていたせいだ。書物にしろCDにしろ膨大なコレクションは結構なことだが、思いのままに瞬時に取り出せてこそのコレクションだ。このほど収納を整理することになる。
結婚はまだかとは言いっこなしということだ。
昨年4月。長女が我が家を巣立ったとき、それを機に大規模な模様替えがあったことはすでに書いておいた。
この度次女が巣立つにあたっても大きな模様替えを企画している。大規模なイベントを意図的に配置することで寂しさに対抗できる。前回は私の在宅スペースの拡充、母の寝室の整理、次女の1人部屋化、グルニエの大掃除などがメインであった。
今回のメインは次女が出た部屋を私の寝室にすることだ。我が家を建てたとき、予算の関係で私の寝室を確保できていなかった。そこから27年を経て、やっと自分の部屋ができる。在宅スペースが拡充したとはいえ、そこは通路の一角だった。毎晩その通路に布団を敷いて寝ていた。家族はもう慣れっこだが、いよいよそれが解消するということになる。
そのほか、長男の部屋の整理だ。趣味のサッカーグッズの収納がどうにも行き詰まっているのを一気に打開する。
次女の結婚により娘二人を送り出せた。住宅ローンを完済した今、老後の資金繰りにおける不確定要素の最たるものが片付いたということだ。この先の老後、平均寿命通りなら20年程度、もしかすると30年だってないとはいえない。それをどう乗り切るのかという読みの中で資金繰りは最重要だ。まとまったお金という意味だと、マイホームの補修、マイカーの更新くらいを考えておけばよい。
本日のタイトル「ロードマップto2033」というとそこいらの掘り下げがぴたりと来るのだが、そうではない。
老後の生活の中心にブログ「ブラームスの辞書」の運営が精神的には大きなウエイトをしめる。記事執筆に必要なCDの購入、書籍や楽譜のなど出費があるにはあるが、家や車に比べると相対的には無視し得る
2033年5月7日はブラームスの生誕200年であると同時に、私自身が設定したブログ「ブラームスの辞書」の記事毎日更新のゴールだ。
その年素晴らしいことが起きる。
1月 私が73歳になる。
5月 ブログ「ブラームスの辞書」ゴール。
7月 母が98歳になる。
おおってなもんだ。73歳の私はブラ2寿、そして98歳の母はブラ4寿だ。
一昨日結婚のために我が家を巣立った次女だが、昨年の今頃はまだお相手に出会ってもいなかった。
出会いから338日という速度。
ブラームスのご加護を。
音楽作品の聴き方の話だ。CDを聴くとき、作品名を知った状態でという癖。加えて、楽譜も参照したいという若いころからの癖に変化が起きている。
バロックに親しむと、あまりの作品数に圧倒される。到底全部はおぼえられない。これが第一の理由だが他にも要因がある。コロナ禍による在宅勤務の浸透だ。在宅勤務中のBGMはあまり根を詰めて聞かない。あるいはマイカー更新で、CDが再生できなくなった代替にお気に入りをUSBに取り込んでドライブを楽しむようになって、作品名だ楽譜だとこだわってもいられなくなった。
「在宅しながら」「ドライブしながら」ということ。くり返し聴くうちに、毎度「あれっ」となる曲を、どれどれとばかりにじっくり聴くという手順が生まれた。
その流れは確かにバロックから始まったけれど、シューベルトのリートやバッハのカンタータに飛び火した。となるとモーツアルトへの波及も時間の問題であったが、このほどハイドンへの傾倒が始まると決定的になった。
ハイドンの多楽章器楽ソナタに限定する。交響曲、弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲、ピアノソナタで全部で280曲ある。
この中で標題付きの作品がいくつかある。交響曲で30曲、弦楽四重奏曲で14曲あるけれど、ピアノ三重奏曲とピアノソナタには見当たらない。
交響曲にしろ弦楽四重奏にしろハイドン自身の命名はない。愛好家が生前または後世になって付与したということだ。数が多いための判別が主な目的で、言い得て妙はあっても。必ずしも曲の本質を表してはいない。そこがロマン派の標題音楽とは違うところだ。ベートーヴェンでさえ現在流布する標題には本人の関与しないものが多く混じる。
作品の優劣とは関係ないが、後世の聴衆への流布という点で差がつく。私だってとっかかりには「標題付き」を選んだ。作曲あるいは初演時のエピソードが標題に反映していることもある。挙句の果てにCDには「標題付き作品全集」なるものも出る始末だ。
判官びいきとでもいうのか、こうなると標題の付与されないジャンルを大切にしたくなる。
またまた話をハイドンの交響曲104曲、弦楽四重奏曲83曲、ピアノ三重奏曲41曲、ピアノソナタ52曲に限定する。つまり器楽用多楽章ソナタということだ。全部で280曲になる。
このうち短調作品がいくつあるかという話だ。ここでいう短調作品の定義は第一楽章冒頭の調性とする。記譜と実際に鳴る冒頭和音のずれは無視する。交響曲は11曲。弦楽四重奏曲は12曲、ピアノ三重奏曲は7曲、ピアノソナタは5曲。全部で35曲だ。率にして12.5%。
感覚として少ないのだが、モーツアルトやバッハでも短調は少ないのでその範囲内。おおむね調号3個以内。フラット4個のヘ短調と、シャープ4個の嬰ハ短調が各1曲ずつだ。
その短調にお気に入りが多い。
交響曲第44番ホ短調「告別」、同45番「悲しみ」
弦楽四重奏曲第74番「騎士」、同76番「五度」
ピアノソナタ第34番、36番。
ピアノ三重奏曲第26番、31番。
たまにあるから印象に残るだけかもしれないが記憶しておきたい。
ブラームスの名曲解説辞典の中、「ハイドンの主題による変奏曲」周辺以外に5度ハイドンへの言及がある。
まずは71ページ。管弦楽のためのセレナーデの解説の中、「セレナーデ」というジャンルの最盛期の表現として「ハイドン、モーツアルトの時代」と言っている。
次は75ページ。管弦楽のためのセレナーデ第1番ニ長調の第一楽章の主題とハイドンのロンドン交響曲のフィナーレとの関連を指摘している。
次の80ページもまた管弦楽のためのセレナーデ第1番。今度はスケルツォがハイドンのロンドン交響曲のフィナーレの主題と関係があると述べている。
それから166ページの冒頭だ。弦楽六重奏曲第1番変ロ長調op18の第4楽章の項。チェロによって奏でられる冒頭主題を指して「ハイドン的」と表現されている。前後の脈絡からしてほめているニュアンス。
次が、218ページ中ほど。弦楽四重奏曲第3番変ロ長調op67の全体の曲想を論じる中に、「後期ベートーヴェンを思わせるように入念に出来ている。しかしそれと同時にハイドン風の快活さももっている」とある。
ハイドンの作風芸風に深く立ち入ったコメントは控えたい。ハイドンの鑑賞経験が積み重なることを待ちたい。これらが作品解説書に現れるということ自体がヒントになっていると感じる。一般に流布するハイドンのイメージを下敷きにすることなしにありえない表現だからだ。
ヒントは「快活」と「ユーモア」か。「ハイドン作品が好ましい快活さを持っている」と思われている証拠だ。「ユーモア」について申せば、ブラームスの弦楽四重奏曲第3番の解説文中、第一楽章について「ユーモラス」という表現が2度現れる。同曲のフィナーレには1回「ユーモア」との記述がある。
ハイドン作品の特色として「快活」「ユーモア」と言われて今のところ違和感がない。
ブラームス自身、自作の解説にハイドンが引用されていることを喜ぶだろう。
音楽の友社刊行のシリーズものだ。手っ取り早く作品の基礎知識を調べたいときに重宝している。ネットで事足りるのだが、紙がないと落ち着かない性分だ
すでに下記を持っていた。
ここにこのほどハイドンが加わった。音源確保に次ぐ情報源というわけだ。買ってわかったのは、交響曲、弦楽四重奏、ピアノソナタ、ピアノ三重奏で、収載漏れが意外に多いということだ。
つまり280曲のうち104曲しか名曲認定されていないということだ。標題率が低いピアノソナタやピアノ三重奏でその傾向が強い気がする。よい曲多いのに気の毒。
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