尊き御神の統べしらすままに
三位一体節後第5日曜日用「Wer nur den lieben Gott lasst walten」BWV93。コラール「ただ愛する神に委ねる者は」に基づく変奏曲の花束という風情。付き従うのはオーボエ2本だけが加わる管弦楽。
ディースカウ先生の出番は第2曲に少々。だがクレメント先生のオーボエが寄り添うソプラノのアリアが秀逸。規模は小さいながらどうしてどうして捨てがたい。
« 2024年5月 | トップページ | 2024年7月 »
三位一体節後第5日曜日用「Wer nur den lieben Gott lasst walten」BWV93。コラール「ただ愛する神に委ねる者は」に基づく変奏曲の花束という風情。付き従うのはオーボエ2本だけが加わる管弦楽。
ディースカウ先生の出番は第2曲に少々。だがクレメント先生のオーボエが寄り添うソプラノのアリアが秀逸。規模は小さいながらどうしてどうして捨てがたい。
マンフレート・クレメント先生の出番がカール・リヒター先生カンタータ選集全75曲の中でどれほど出てくるのか調べた。
結論から申すなら圧倒的だ。84カ所に及ぶ。これはディースカウ先生の出番87カ所に次ぐ。リヒター先生の選集にはクレメント先生以外の人がオーボエを担当している作品もあるが、この数値はクレメント先生の出番だけに絞っての値だ。
様々な出番がある。声楽の混じらぬシンフォニア、アリアの伴奏、二重唱の伴奏、合唱の伴奏あるいはわずかながらレチタティーボに付き従うケースもある。総奏で鳴る中にオーボエがあっても私が聞き逃しているということもあるだろう。ここにあげた84カ所は私が聞き取れた場所だ。全て再生すると6時間49分。演奏時間ならディースカウ先生の出番4時間49分を大きく上回る。
クレメント先生の出番だけをBWV番号順に抜き出した特製USBを作った。時々ディースカウ先生やシュライヤー先生との共演も混じる。
いやはや圧倒的な面白さだ。
オーボエに軸足を移してカンタータを聴き始めてすぐのことだ。
きれいな音。華麗な出番がキレッキレであるというよりも、単なる伸ばしの音がきれいな人だなと思った。リヒター先生のカンタータ選集のブックレットを見るとマンフレート・クレメントとある。そのつもりで聴き進めるとなんだかすごい人だと感じ始めた。同時にどこかで聞いた名前とも感じたが思い出せぬ。
旧東独生まれで、ドレスデンで研鑽を積み、ライプチヒゲヴァントハウスで主席奏者になったのが二十歳の頃とかいう強者だ。さる演奏会を機に西側に亡命してミュンヘンに居を構え、バイエルン国立歌劇場の主席奏者に就任。バルセロナからレアルマドリーに移籍したようなものかと。我が家にあるCDでいえば、クーベリックやコリン・デーヴィスのブラームスで出番があったはずだ。
こうしたミュンヘンでの経歴からかリヒター先生のバッハ管弦楽団にも参加したに違いない。三顧の礼で迎えられたかどうかは不明ながら、重要なソロが吹かせてもらえている。バスのディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ先生に匹敵する位置付けかと納得している。
カンタータの聴き方の変化の話。
歌手たちとりわけディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ先生の出番を起点に楽しんで想定外の収穫にありついたばかりだ。ここに新たな視点を加える。それがオーボエだ。
元々カンタータ82や30でオーボエがディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ先生の出番で拮抗していた。事実上の「二重協奏曲」だ。
リヒター先生のカンタータ選集を75曲をそういう視点から聞き直してみる。
本当に本当に楽しいトライだった。歌手たちの出番はブックレットの記載を見ればわかる。「アリア」「レチタティーボ」という記載には必ず声種が併記されているからだ。ところがオーボエの出番は、どの楽曲にあるのかはわからない。BWV82で申せば「BWV82にオーボエの出番があること」はわかるが、第1曲から第5曲のどこにあるのかは書いていない。「レチタティーボにはないはず」程度の見当は付けられるが、単なる伸ばし程度の出番なのか華麗なソロなのかもわからない。
「オーボエ聴くぞ」と思って聴くカンタータ体験だ。
新しい。
ヨハネの祝日用のカンタータ第30番にはオーボエやオーボエダモーレの出番が充実している。バッハのカンタータの聞き所は独唱歌手によるアリアだと思ってはいるのだが、実はオーボエにも華麗な出番が多いと感じてはいた。
ブラームスに目を移せば室内楽に出番はないもののコンチェルトを含む管弦楽には納得の出番がところ狭しと並ぶ。オーボエの友人曰く「オケでは2番オーボエも面白い」らしい。そりゃあ室内楽に出番のあるクラリネットやホルンには一歩譲るが、充実度は負けていない。
第一交響曲の序奏、同じく第一交響曲の第二楽章、第二交響曲の第三楽章などおいしい見せ場が多い。ヴァイオリン協奏曲の第二楽章では延々と独奏ヴァイオリンを黙らせるというブラームス節の根幹をも背負っている。
昔からヴァイオリンとオーボエのための協奏曲は大好きだった。ブランデンブルク協奏曲にも出番がある。しかしその程度にとどまっていたのもまた事実だ。バッハへのアプローチが器楽限定になっていたから仕方がない。カンタータにどっぷりつかってみて、まず独唱アリアに目覚め、ほどなくオーボエにもと視界が広がった。
「混じりけなき心」BWV24にテノールの見せ場があって、2本のオーボエダモーレが印象的と書いた。オーボエダモーレは「愛のオーボエ」という意味だ。バッハのカンタータにはよく出てくる。リヒター先生のカンタータ選集に出てくる75曲を調べるとざっと下記の通りとなっている。見落としもあるかもしれぬ。
脳内に浮上した楽想を音楽に転写するにあたって、どのような楽器を充てるのかは凡人には計りかねる。これらにオーボエダモーレを充てねばと思いつくバッハ脳みそを思いやる。
本日は洗礼者ヨハネの誕生日。イエスに洗礼を施したヨハネの誕生日はキリスト教の祝日になっている。それようのカンタータが「Freue dich,erloste Schar」BWV30ということだ。
父ザカリア、母エリザベトは子宝に恵まれず悩んでいたが、ザカリアがお香を焚いていたときに天使ガブリエルが現れて、エリザベトの懐妊を告げたという。
全12曲が前後2部に分かれた大規模なカンタータ。元々は世俗カンタータだったものがバッハ本人により転用された。いわゆるパロディだ。オケにはフルート、オーボエ,オーボエダモーレに加え、トランペットやティンパニも加わる。
ディースカウ先生の出番は前半後半それぞれにレチタティーボとアリアがある。第3曲の方には華麗なコロラトゥーラ状の出番が聞き所になっている。第6曲は例によって「バスとオーボエのための協奏曲」といった趣き。BWV82のフィナーレと同じだ。
三位一体節後第4日曜日用。「Ein ungegfarbt Gemute」BWV24。合唱が中央の第3曲に置かれマタイ福音書から「人にしてもらいたいと思うことは、あなた方も人にしなさい」と歌う。この前後をアリアやレチタティーボが取り囲んでいるというわけだ。
直後の第4曲のレチタティーボでディースカウ先生が悪魔の仕業を列挙して神の加護を祈るかのよう。
第5曲のアリアはテノール・ペーターシュライヤー先生の見せ場。2本のオーボエダモーレが印象的。
ドーヴァー社のバッハの楽譜が「旧バッハ全集」準拠だという話。これを昨日グッドジョブと評した。
よくよく考えると、カールリヒター先生は「旧バッハ全集支持」だった。いわく「新全集は研究成果の反映はあるにしても誤植も多い。しかも旧全集の方が印刷の具合がよろしい」とその根拠を述べていた。ドーヴァー社の楽譜がその字体まで含めたコピペで、刊行時に付与されたのは目次だけにとどまると考えると、ドーヴァー社のフルスコアを見ることは、リヒター先生の見た楽譜を見ることに等しくはないか。
もっとある。
旧バッハ全集は1851年に第1巻が刊行され、これをクララ・シューマンが「友情の印」としてブラームスに贈っている。それ以降ブラームスは没するまで旧バッハ全集の新刊を手元に取り寄せて、自らの蔵書とした話は既に述べておいた。
ドーヴァーの楽譜はブラームスの見たままということになる。
家中のドーヴァー社の楽譜を慌てて見直した。
ブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲、オルガン自由曲も全て旧バッハ全集だった。
旧バッハ全集はもっとも新しいもので1897年の刊行だから、著作権があったにしても切れている。ドーヴァー社が廉価版を供給できるのは、そうした背景もあるに違いない。
ドーヴァー社グッドジョブだ。
昨日の記事「BWV番号脱落」でドーヴァー社のカンタータの楽譜本編タイトルにBWV番号の記載がないと書いた。
この現象の理由を調べていて目から鱗が数枚落ちた。
同カンタータ集の冒頭に参照元が記載されている。
「ドーヴァー社の刊行は1976年だが、その参照元はライプチヒバッハ協会が1851年から1881年にかけて刊行したバッハ作品全集である」と書かれている。旧バッハ全集のことだ。ウイルヘルム・ルストという校訂者名も付記されていた。
ドーヴァー社の種本が旧バッハ全集なら、1950年に考案されたBWV番号が反映しないのは当然だ。しかし利用者の利便を考えて目次にだけBWV番号を挿入したということでつじつまが合う。
目次に続く楽譜本文はタイトルまで含めて旧バッハ全集のコピペだということになる。
私の造語なので説明が要る。
トッカータとフーガニ短調BWV538は古来「ドリアントッカータ」といわれている。これはバロック時代特有の特殊な記譜法に由来する。シャープもフラットもつかない調性はハ長調とイ短調だ。そこからフラット1個でヘ長調(ニ短調)に代わり、2個3個4個と増えてゆくとそれぞれ、変ロ長調、変ホ長調、変イ長調となってゆく。ところがだ、フラットを1個も付与しないままなのに、実質ニ短調が鳴る作品がときどきある。
これは教会旋法のドリア調だ。ピアノの白鍵だけをレから上るとも言える。先のBWV538ドリアントッカータはこの状態で記譜されているためである。
最後に付与されるべきフラットの留保と定義できる。
ドーヴァー社のカンタータの楽譜を手元に置いて、大好きな「Ich habe Genug」BWV82を開けたところ、奇妙な現象に気づいた。ヴィオラ以下はC音を鳴らす。セカンドのEsが第三音となってハ短調の枠組みが成り立っているのに、フラットが2個しかない。フラットが2個だとト短調となるのが一般的だが、これいかに。
つまり、これは最後3個目にA音に付与されるべきフラットが留保されていると解するのが自然だ。つまり最後のフラット留保だ。ニ短調で起こりやすいドリアン状態がハ短調で起きているということ。ハ短調から見た平行調の変ホ長調の第3曲はフラットが省かれることなく3個記載されているから通常標記に戻っていて安心するのもつかの間、ハ短調に回帰するフィナーレ第5曲では再びフラットが1個省かれた記譜になっている。
楽譜参照がやめられない理由がこれにて一部説明できる。
「Ich hatte vier Bekummernis」BWV21。実はこれも昨日話題にしたBWV135と同じく三位一体節後第3日曜日用だ。リヒター先生はこの日用を重複して選んでいた。
BWV21はワイマール時代にさかのぼる初期カンタータだ。ブラームスはウィーンジンクアカデミーの指揮者だったとき、本曲を演奏会で取り上げている。第1交響曲への心理的影響まで想像してしまう。
第1曲のシンフォニアはオーボエの見せ場。ディースカウ先生の出番にアリアはないが、第8曲のソプラノとの二重唱が聞かせどころ。
三位一体節後第3日曜日用「Ach Herr,mich armen Sunder」BWV135。迷える羊や、なくした銀貨のエピソード。羊や銀貨の嘆きと神の救い。神への期待を歌う巧妙なたとえ話。
第5曲のバスのアリアを歌うのはディーススカウ先生だ。アリアにしては短い2分39秒だが、あたりを鎮める役どころ。これに続く合唱は神をたたえるお決まりのパターンながら、マタイにも転用されているほどの説得力。
「7と11」などと申すと、どこぞのコンビニかとも思われかねない。今回の話題ドーヴァーは米国の出版社だ。廉価版の楽譜には本当にお世話になっている。先般「バッハ作品目録2022」は、ドーヴァー社の刊行するバッハのカンタータのフルスコアのお取り寄せをお願いしてスタッフがあれこれ手続きをしている間、店内をうろついていて発見した。お取り寄せの楽譜そっちのけで衝動買いに走った経緯はすでに述べてある。
このときに入手したの2冊が「7つのカンタータ」と「11のカンタータ」だ。
何につけ鑑賞のお供に楽譜を参照したい性分なのだが、バッハのカンタータ全200曲を取りそろえるとなると負担も大きい。だからひとまず毎度毎度のドーヴァーとあいなった。
このうち7つの側に収録されているのはBWV番号でいうと下記。
で11の方はこちら。
ドーヴァー社がこの18曲を代表的カンタータと考えている証拠かと思える。商売となれば楽譜の売れ行きが最大の関心事だろう。
「Ich habe Genug」BWV82があってよかった。
リヒター先生がカンタータの収録にあたってどんな楽譜を参照したのかわからぬと書いた。「旧バッハ全集」か「新バッハ全集」には違いないのだが悩ましい。
どこかにヒントはないものかと文藝別冊の「カールリヒター」を読んでいたらお宝情報があった。リヒター先生のインタビュー記事である。この中にで聞き手がリヒター先生に「どの楽譜が好きですか?」と直球の質問を投げている。インタビュー当時は「新バッハ全集刊行」から時間があまりたっていないので、愛好家には興味津々の話題だったのだろう。
リヒター先生の答えはなんと「旧バッハ全集」だった。
さらに聞き手は「新バッハ全集は最新の研究成果が盛り込まれてますが」と水を向けても、断固「旧バッハ全集」だと譲らないリヒター先生だ。「確かに研究成果は尊いけれど、誤植も多くてな」とは物騒な。「旧の方が印刷の具合もよくて、できばえが美しい」などと目からうろこのやりとりが続く。
収録にあたってどちらを参照したのかという二者択一ではなく、旧を基本に、必要に応じて新で確認したのかもしれない。
事は単純ではなさそうだ。
カール・リヒター先生のバッハカンタータ全集のブックレットには、収録にあたり参照された楽譜が記載されている。以下の通りだ。
前者は通称「旧バッハ全集」で、後者が「新バッハ全集」である。収録全75曲のうちどれが旧参照で、どれが新参照かは、明記されてはいない。手練れの者ならわかるのかもしれないが私には無理だ。
このうち旧バッハ全集はメンデルスゾーンらによって立ち上げられたライプチヒバッハ協会の出版で間違いない。「1851-1899」とあるように時間をかけて全巻が出そろった。ブラームスは第1巻をクララ・シューマンから贈られて以降、全巻を予約購読した。1897年の没年に間に合わなかったのはごくわずかである。見ての通りブライトコップフだ。
一方の新バッハ全集は1950年バッハ没後200年を契機にベーレンライターから刊行された。現代重宝しているBWV番号はこのとき付与されている。
カールリヒター先生に関する書物を読んでいると、必ず話題になるのがピリオド楽器の話題だ。リヒター先生の残した録音は通常楽器なのだが、晩年がピリオド楽器の台頭した時期に重なる云々だ。バッハ演奏の泰斗としての地位を不動のものとしていた先生の衰えとピリオド演奏の台頭のタイミングがあっていのだそうだ。
バッハについて申せば、今やもうピリオド演奏が主流なのは明らか。
私自身の好みはCDのコレクションとしては圧倒的に通常楽器だ。ファビオビオンディ先生が現れなければ今でもピリオドをよけていただろう。
バッハの存命した時代の風習に合わせるという主旨を一部ご都合主義だとも感じる。そんなにバッハの時代をまねしたいのなら録音はだめでしょとか。バッハ時代に戻るパラメータと戻らないパラメータの設定が恣意的な気がする。
楽器の性能に限界があって諦めていたけど、よい機能が楽器があったらどんどん使っていたのではとも。バッハに聞けないのが残念。
本日この記事はブログ「ブラームスの辞書」開設以来7000本目の記事である。
2005年5月30日以来ここまで6953日間1日も更新の抜けがないことは毎度の手前味噌。2033年5月7日ブラームス生誕200年のゴールまであと3252本となった。今までの半分以下でいいのだ。ゆめゆめ油断は禁物ながら、「そんなに少なくていいのか」と拍子抜け感もある。
三位一体節後第2日曜日用「Die Himmel Erzahlen die ehre Gottes」BWV76だ。説法の内容は神の国の大宴会についてのお話。メンバー集めに奔走する幹事の苦労ネタは身につまされる。大宴会だからというわけでもなかろうが、規模が大きい。全14曲が2部に分かれる。編成も豊かでトランペット、オーボエ、オーボエダモーレにガンバまで加わる。それでいて宴会に直接言及するのは第6曲アルトのレチタティーボくらいかと。
バスにはディースカウ先生が起用されていないせいもあって、第8曲のシンフォニアに惹かれている。
昨日文藝別冊の「カールリヒター」ではしゃいだ。このシリーズにはかなりバックナンバーがたまっている。ほぼ人物が切り口といっていい。
歴史上の人物、作家、映画監督、俳優、漫画家、落語家などなど超多彩だ。
音楽系に絞っても作曲家、演奏家などさまざまで、ジャンルはクラシックにとどまらない。
全体のトーンはその人物にまつわるエッセイ集という感じ。学術書の堅苦しさとは無縁のカジュアルなテイストが売りかも。クラシックの作曲家ではマーラー、バッハ、ショパン、ワーグナー、モーツアルトくらい。ブラームスは落選だ。基準が知りたいと思い詰めるのは野暮だろう。演奏家はリヒター先生に加えて、カラヤン、フルトヴェングラー、マリア・カラス、グレン・グールド、カルロス・クライバーくらいか。こう並ぶとわかるような気がする。ある程度のカリスマ性が必須な感じ。
我が家にあるのは「カール・リヒター」「グレン・グールド」と「カルロス・クライバー」の3種。エリー・アメリンク先生はともかくフィッシャーディースカウ先生は是非ともほしいところ。
私のバッハ体験を思い出してみる。大学1年でブランデンブルク協奏曲の5番がほぼ初体験。それ以前は、中学の音楽の時間の「小フーガト短調」があるくらい。あるいは「G線上のアリア」や「グノーのアヴェマリア」をBGM的に体験したかもしれない。
学生オケ時代、バッハが定期演奏会で取り上げられることはなかったが、団内の様々なイベントでバッハに接した。ブランデンブルク協奏曲全般に横展開することに始まり、ヴァイオリン協奏曲から2つのヴァイオリン、オーボエとヴァイオリンの両協奏曲に波及するのはさしたる時間もかからなかった。やがてヴァイオリンとチェロの無伴奏作品に興味が移るとほぼ同時に、一連のクラヴィーア作品や、「トッカータとフーガニ短調」でオルガンも聴いた。
声楽への興味はベートーヴェンの第九止まり。カンタータはもちろんマタイもヨハネも遠い遠いよその話だった。
今になってこれらを俯瞰すると、膨大なバッハ作品から見れば量的には氷山の一角だ。それだけでバッハを好きと思えた。「木を見て森を見ず」あるいは「水を見て小川を見てない」か。小川はやがて大河となって大海に注いでいた。
「バッハ作品目録2022」の助けもあって、今やっとそのことに気づき始めた。45年かかった。
「バッハ作品目録2022」の淡々とした記述。BWV番号順に全作品に触れる。カンタータに始まって、モテット、受難曲、ミサ、オルガン、クラヴィーアと続く。淡々と事実の列挙が繰り返される。
現代のバッハ作品受容の濃淡には影響されていない。どんなに有名な作品であっても、あるいは無名の作品でも記述に差はない。ほれぼれとするばかりの一貫性だ。私個人の作品の好みがいかに偏っていて、所有するCDの枚数に差があろうと、同書の扱いは公平。
身が引き締まる思いだ。
マッコークルのブラームス作品目録も、この性格は同じだ。つまり、作曲家研究の起点として作品目録が備えるべき機能とはこうあるべきなのだ。
作曲家研究史の起点になったのが、バッハだということ。その旗振り役を担ったがフィリップ・シュピッタという研究家。
なんとブラームスの友人だ。
待降節に始まる教会暦は、聖霊降臨祭をもって折り返しとなる。聖霊降臨祭の次の日曜日の三位一体節以後は、日曜日の経過を「第~日曜日」という具合に数えているだけにも見える。
クリスマス、新年、顕現節、マリア清めの祝日、受胎告知の日、イースター、昇天祭、聖霊降臨節という具合に節目が目白押しだった前半とはうってかわって粛々と過ぎる。
こもりがちな冬場にイベントを連発させて人々を鼓舞する狙いまで想像してしまう。
夏場以降、収穫の秋をも静かに過ごすということか。日本でなら「もの思いの秋」とでも説明されようが、欧州にはまた別の必然もあるに違いない。
三位一体節後第1日曜日ということで「Brich dem Hungrigen den Brot」BWV39だ。説法は「お金持ちとラザロ」の逸話。生前の蓄財を戒め云々。
第1曲の合唱に重なるオーボエやリコーダーが、パンを刻む描写と古来指摘されているとおりだ。
「Brot」はパン。英語の「Bread」と呼応していよう。聖書をひもとけばしばしばお目にかかる。キリストの血を象徴する赤ワインに対して、パンは肉体をと解説される。ドイツのパンは多彩で豊か。
で、ビールはしばしば液体のパンと位置づけられて、断食の枠外に置かれる。
先日、またまた福岡まで新幹線で往復してきた。
暇つぶしにバッハのゴールドベルク変奏曲を聴きまくった話もしてある。あのとき 以来の企てだ。
今回はシューベルトに挑戦だ。
弦楽四重奏全集全6枚を持ち込んで聴いてきた。ドーヴァーさんのフルスコアも一緒である。片道3枚でちょうどいい感じ。番号順に聴いた。「死と乙女」「ロザムンデ」など知名度の高い作品は帰路であった。
それらの前12番にさしかかったとき、凍り付いた。ブックレットによれば単一楽章で、第一楽章相当分が断片として出版されていて云々。本作出版にブラームスが関与している。ブラームスはウイーンに進出した直後、シューベルトの遺作を所有する出版社と懇意であった。シューベルトの兄が相続した楽譜が大量に所蔵されていて、写譜に励んだという。その中から一部出版に回っているということだ。1870年のことらしい。
ブラームスの遺品となったその楽譜が楽友協会に保管されている。
最近のコメント