主たる神よ我らこぞりて汝を頌め
昨日9月29日は、大天使ミカエルの祝日だ。三位一体節後第18日曜日と重なったために1日遅れて公開する「Herr Gott,dich loben alte wir」だ。ミカエルは、悪魔との戦いの守護者だという。
トランペット、ティンパニが参加するというだけで、華やか。神や王の権威の象徴らしい。龍の反撃を歌うのは例によってディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ先生だ。
いろいろあるが最後はやはりコラールが締めてめでたしめでたしとなる。
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昨日9月29日は、大天使ミカエルの祝日だ。三位一体節後第18日曜日と重なったために1日遅れて公開する「Herr Gott,dich loben alte wir」だ。ミカエルは、悪魔との戦いの守護者だという。
トランペット、ティンパニが参加するというだけで、華やか。神や王の権威の象徴らしい。龍の反撃を歌うのは例によってディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ先生だ。
いろいろあるが最後はやはりコラールが締めてめでたしめでたしとなる。
三位一体節後第18日曜日用「Herr Christ,der eine Gottessohn」BWV96。
第5曲バスのアリア。よろめく足取りをあらわす付点。クレメント先生のオーボエとディースカウ先生のアンサンブル。このあたり醍醐味だ。第3曲のテノールのアリアも捨てがたい。シュライヤー先生に付き従うのはフルートは、ペーター・ルーカス・グラーフという陣容。
9月23日は月曜ながら祝日だった。午後のひととき弦楽四重奏を堪能してきた。ヘンシェル四重奏団の演奏会。
いやいや精緻な演奏だった。ピアニシモを存分に操るとでも申すか。ピアニシモに引き込まれるとでも申すか。ピアニシモに落としきった底の底からさらにまたディミヌエンドして、最後の最後に大事なことをささやくか。常設の四重奏団とはこういう呼吸なのかと感心しきりだ。
で。
で、最近ヴィオラの演奏にはまっているせいか、ついついヴィオラ奏者を見てしまう。私の座席は彼女に正面から正対する位置という幸運をただ感謝した。そう、同四重奏団のヴィオラ奏者は紅一点だ。ヴァイオリンと比べれば、さして大型の楽器ではないとすぐにわかる。そのせいなのかどうか、彼女の構えは楽器が高く上がる。フィンガリングが常に目線より上で行われているくらい。
さらに何がすごいといって彼女のボウイングだ。上下する右手の優雅な動き。弓の返し毎に披露される柔らかな指のクッション。それでいてラズモフスキーのフィナーレを先導するフーガの扱いはキレッキレ。切れ味が優雅さと同居するとでも申すしかない。
ヴィオラっていいな。と心から思った。
アンコールは、ベートーヴェンの13番の四重奏の緩徐楽章だった。
楽器の主治医と位置づけたなじみの職人さんとの会話が弾む。やはり話題はヴィオラの大きさ。大きさでこんだけ盛り上がるのはヴィオラならではだそうだ。他の弦楽器でこんなことあり得ぬとか。
そもそもヴィオラだけが大きさの規定が緩い。最近では小さいヴィオラが主流になっているとも聞く。弦楽器の販売や制作に携わる人々にとっての最大の関心事は売れ行きらしく、大きなヴィオラは分が悪いとされている。39.5~40.5cmあたりが主流で、42cmだってあまり見かけないと。体格に恵まれた欧米でさえこうした傾向があるともいう。
取り回し易さがそのまま売れ行きにつながっているのかもとおっしゃる。音の鳴りは弾き込むことでカバーできるかどうかはともかく、市場の動向には逆らえないというお話。
我が愛器45.5cmはでかい。1877年ドイツ製。技術者目線からは、修理するにしても関心しきりだとか。様々な部位のサイズ、比率、材質などとても興味深いと身を乗り出す。
私は満足している。どうせ取り回しなんぞ小さい楽器でも苦手だったわ。音程が悪いのを楽器の大きさのせいにする気は無い。鳴りの源泉たるボディー内部の空間は、長さの3乗に比例すると聞いてほくほくだ。顎当てを通じてツンと来る響きは何にも代えがたい。これを味わうために音程を鍛えねばならない。音程がはまったときだけ、楽器からアンサーバックがある。右手と左手の繊細な共同作業なのだと思う。オケの弦楽器のメンバーから「その楽器、普通より大きいですよね」と突っ込まれて、「はい」とほくほくこたえるのが楽しみだ。
これまでの練習で現れ始めた成果をメモしておく。課題ばかり積み上げていると滅入るから収穫も書いておきたい。
これ、オケの曲目にブラームスがあったら大変だったろう。今回は無くてよかったかもしれない。
64歳で再度オケ弾きに復活できたことポジティブに捉えたい。大学入学と同時に始めたヴィオラライフに感謝しきりだ。定年をきっかけに1から習い始めるのに比べたら雲泥の差だろう。この先に控える運動能力や五感の衰えと、誠実に向き合ってゆくために、遅すぎることはあるまい。
バッハ「無伴奏チェロ組曲ヴィオラ版」を弾く練習をするときに気をつけていることを思いつくままに書き留めておく。
<長いブランクの後で>
<巨大ヴィオラの取り回し>
<音程感>
<奏法>
<音色>
<テンポ>
64の手習いとしてはひとまずこのくらいから。このあと演奏会の曲目の練習も忘れずに。
我が家に初孫の襲来があった。誕生から今まで2ヶ月はもっぱら私が母を連れて孫の家を訪問していたが、このほどついに孫を我が家に迎えた。
思えばちょうど生後2ヶ月のメモリアルデーでもあった。「祝6分の1Year」のプレートをのせたケーキを用意して待った。
体重が出生時から3kg増えて6400となった。
万感胸に迫る。
三位一体節後第17日曜日用「Bribget dem Herren Ehre seines Namens 」BWV148。結婚式の席次のエピソード。ひとまず上席にはつくなという納得の教え。
オーボエのクレメント先生に加えて、トランペットありイングリッシュホルンあり、独奏ヴァイオリンありの大きめの編成なのだが、バス独唱は降り番。ソプラノ独唱もいない。シュライヤー先生のアリアに寄り添う独奏ヴァイオリンの第2曲を聞き逃さぬよう。あるいはアルト独唱とオーボエのからみも美しい。
それにしてもだ。楽器にまつわる課題はさまざまある。腕前が最大の課題であることはこの際棚上げだ。巨大な棚がいる。
楽器の維持はおそらくこれに次ぐ課題だと位置づけ得る。弓やケースを含む楽器が健全に維持されねばならない。
このほど15年ぶりに再会を果たした懇意の職人さんはその意味でうってつけの人物。私の楽器をよく知っている上に、私自身のキャラに慣れている。楽器を定期的に見てもらうだけでいい。弓の毛替えを定期的にお願いするメリットは計り知れない。
心配し出すと切りがない。駒、魂柱、響板、指板、エンドピース、ネック、アジャスター、ペグ、糸巻きこれらを総合的に見てもらうことが楽器の健康維持に欠かすまい。練習中に切れた場合を除いては弦の交換だってお願いしたいくらいだ。先日のメンテでの引き渡しのとき、礼を言っての去り際に「音程は直ってませんよね」とジョークをかますと「はい。それには手を付けていません」とノータイムの切り返しがあった。おバカなトークもお値段のうちである。
高血圧だ、高血糖だと定期健診が忙しいが、楽器だって同じだ。
まさに緊急事態だった。今週火曜日の弦練習。コンマスを含む数人が欠席となった。集まったのは私を入れて以下の5名。
幸いだったのは、第二ヴァイオリンとチェロのパーリーの参加だ。これでマイスタージンガーをどうせよと言うのか途方に暮れたが、もっとすごい緊急事態が降って湧いた。
なんと私が振った。練習を振るなんぞ1981年6月大学オケのパート練習以来だ。練習指揮などというものおこがましい。「人間メトロノーム」がふさわしい。各自が課題を持ち寄って順に合わせる練習のメトロノームを務めたということ。
18時から20時までたっぷり休憩無しで弾き込んだ。日頃各自が感じているカ所の深掘りとパート間の連携の確認に費やした。ずれた場合に戻る集合場所の確認も念入りに行った。遠足の自由時間後に、集合場所が決められているような感覚。そもそもずれるのが前提になっているのがすごい。
よいこともある。ヴィオラはセカンドやチェロと同じ事をやっている場合が多いので、私が抜けても不自由はない。何より指揮には音程がない。変な音を出して迷惑をかけるくらいならメトロノームになる方がいいかもしれぬ。
終わったあと、昼間ランチに行きつけの中華料理店になだれこんで反省会。餃子と生ビールの完璧なアンサンブルを楽しんだ。
私のヴィオラが7日のメンテから戻って8日たった。7日の空白を埋めるように、平日にも最低1時間は楽器に触っていたほか、14日からの3連休では、2時間以上練習した。弦交換、弓の毛替えの効果を実感できた。鮮やかというべきか。昨年10月に職場オケに参加のために15年ぶりに取り出した楽器で半年辛抱していたが、思い切ってメンテに踏み切ってよかった。
弓の毛替えの効果なのだろう。弓が弦に噛んでくれる感じがわかる。あるいは「引っかかりがよくなった」と申した方がいいかもしれない。解放弦が苦も無く鳴る。「もっと力を抜いてね」とばかり楽器が反応してくれる。
無伴奏チェロ組曲のヴィオラ版を例に取る。ト長調1番の冒頭1小節。16分音符16個のうち、解放弦が10回だ。これが本当に気持ちいい。
あるいは同曲の第3曲クーラント冒頭。赤い点を付けたのが開放弦だが、このうちの最後のCがなんとも魅力的。一瞬C線に触るのだが、苦も無く響く。深々と掘り下げる感じ。響きがしばらく残る感じがうれしい。
バッハの同組曲はこの手のしかけの連続だ。効果は開放弦ではなくても同様だ。顎当てを通じてツンツン来る。弦交換の効果もあるに違いない。特にC線とG線のレスポンスが劇的に向上したのに、チャラくない。ヘリコアのスチールが十分機能的。
職場オケの演奏会の曲目を練習する前の指慣しと言い訳しつつ始めたバッハ。「無伴奏チェロ組曲ヴィオラ版」をマメにさらい始めてかれこれ2ヶ月経つ。これがチェロ用なのが不思議なくらい楽しい。チェリストの聖書扱いはよく聞くが、ヴィオラで弾いても楽しい。チェロとヴィオラはちょうどオクターブの差なので原調のまま楽しめる。そりゃチェロとはフィンガリングは共通しないから、バッハがチェロ用にと仕掛けた効果がそのまま通じるのかはわからないけれど、いいではないか。
全6曲は以下の通り。
へぼなヴィオラ奏者の私が弾く限り番号順で難しくなる感じ。調号だけで言うなら最初の3つは開放弦が全部使える。組曲だから先頭のプレリュード以外は名の知れた舞曲。アルマンド、クーラント、サラバンド、ジークを基本に、曲によりメヌエット、ブーレ、ガヴォットが挟まれる。これらの舞曲には「言わんでもわかるやろ」とばかりにテンポ表示がない。テンポさまざま長短さまざま飽きが来ない。
4番と5番はフラット3個の調号を共有する平行調。A線の解放が使えませんという課題。難しさが1段上がるのはそのせいか。5番ハ短調の冒頭のプレリュードのそのまた序奏は難解。弾けない。が「弾けない」を基準にしてはいけない。なぜなら続くフーガは弾けないのに楽しい。サラバンドもしかりだ。2拍強調のサラバンドなのに譜面からはあまり浮かび上がらない。想像の斜め上の臨時記号が多くてためになる。
5番での特記事項は、本来A線を1音低い「G音」に調律して弾くことが想定されている点。スコルダトゥーラという調律法を前提に作曲されたらしいが、ペーター版の楽譜は本来の通常チューニング用の記譜も合わせて載っているので重宝だ。
もともと5弦チェロ用だった6番は音が高い。今のところ手に負えない。
昔からCDで聴き込んでいるせいもあって、曲の流れは耳に慣れている。だから自分で弾いて音をはずすと「あれ?」となる。テンポ無視、スラー無視、あるいは時に重音無視で弾きまくる。ただただ弾く。臨時記号1個が換える景色に息を呑む。
ちゃんと弾けると裏で走る旋律が聞こえてくるなどというご褒美もある。
でもってだ。延々とバッハに漬け込んだ脳みそで、マイスタージンガーに臨んで驚く。カラリと指が回るのだ。何じゃこりゃという感じ。
楽器に触れぬ1週間、楽譜を見ながらCDを聴いてしのいだ。職場オケの演奏曲はもちろんなのだが、指慣しにと取り組んでいるバッハ「無伴奏チェロ組曲ヴィオラ版」のCDも聴いた。
お気に入りはサイモン・ローランド・ジョーンズ先生の録音。なんと言うことはない。我が家にある楽譜はこの人の校訂だった。チェロ用をヴィオラ用に転ずるにあたっての指南役だ。楽譜の表紙にこの人の名前が踊っているが、後から気づいた。校訂者自らの演奏をCDで聴きながらイメージトレーニングに励んだということだ。
時々現れるボウイングの指示、指回しの指示、開放弦の使用の提案など要所を締めてくれる。巨大ヴィオラの取り回しのことまでは考慮されていないが、気が利いている。
三位一体節後第16日曜日用「Libster Gott,wann werd,ich sterben」BWV8。BWV27とともにこの祝日用が収録されているが、ディースカウ先生やシュライヤー先生は降り番なので、オーレルニコレ先生のフルートがひそかな楽しみなっている。
1祝日1曲の原則が時々破られるが、その根拠は必ずしも明らかではない。
三位一体節後第16日曜日用「Wer weiss,Wie Name mir mein Ende」BWV27。さる未亡人の息子をよみがえらせたお話に続く。
聞き所はオルガン。珍しくオルガンが活躍する。第5曲のディースカウ先生の出番はもちろん、アルトのアリアも聞き所になっている。
楽器のメンテナンスと並ぶ、いやそれ以上の問題があった。
楽器のケースだ。
今の巨大ヴィオラ購入と同時にケースもそろえた。1992年のことだからもう32年前だ。今回15年の空白があったとは言え楽器の方は、弓の毛替えまでいれればそこそこ構ってやれていたが、ケースは本当に何もしていない。
外見はもちろんだが、あちこちに傷みもあったほか、なんと言っても筋金入りのハードケースだから重いのだ。その重みが楽器の保護に直結しているとわかってはいるが重い。ベニア板でできた箱を持ち歩くに等しい。
職場オケの練習に通うようになると、これを持ち歩くことになる。いかんせん重い。オケの練習には飲み会がセットなので、車で行く訳にはいかないのが厄介に拍車をかける。若い頃は気にもとめなかったが、還暦過ぎの親父には重すぎる。
先のメンテナンスのために店頭を訪れたときの最大の用件は、実はケースだった。なんせ巨大ヴィオラなので通販という訳にはいかない。実際に入るのかこの目で確認しないと気が気ではない。店頭在庫をあれこれ見たが、入るのはカーボンマック社の製品だけだった。内部の収納が着脱可能なことが寄与している。弓と肩当て、弱音器と松ヤニもなんとか収まる。
<メリット>
<デメリット>
ノイシュヴァンシュタイン城のテラスから、パラシュート無しで飛び降りるかどうか思案が続く。
メンテから楽器が無事に帰還した話は既に終えている。
15年放置の付けを一括払いとばかりにほかにも気になるアイテムを取りそろえた。
いろいろあるが、まずチューナー。今のチューナーは古くて重い。今どき9Vの積層乾電池でもあるまい。チューナーはスマホのアプリが出回っていて若い子はそちらに走っているのだと思うけど、私はチューナーが無いと落ち着かない。
総額から見ればわずかな金額なので、思い切った。老後の備えだと自分に言い聞かせることしきりである。
楽器をメンテナンスに出したのが8月31日だった。あれこれ直して帰ってきたのが9月8日。9月1日から7日まで7日間楽器に触れなかった。
盆休みの12連休中、毎日2時間以上楽器に触るよう心がけ、それが実現していたせいか、まったく楽器に触れぬ1週間が苦痛だった。これほど苦しいとは思わなかった。仕方ないから楽譜を見ながらCDを聴いていた。こんな感覚学生時代にもなかった。
帰ってきた8日は日曜日だ。翌日仕事なのを忘れて遅くまで楽器に触っていた。
職場オケの演奏会が終わってもこの先の老後、ずっと楽器に親しんでいけそうだ。ボウイングやフィンガリングがボケ防止に一役買うような気もする。
9月8日私のヴィオラがメンテナンスから戻ってきた。8月31日に預けて中7日での帰還。その間練習ができないのが本当につらかった。
メンテ内容は下記。同時に替えたから1個1個のアクションの効果がわからなくなっている。
上記全て鳴りに影響があるに決まっている。結論か言うとすごい。腕前が変わるはずはないので、鳴りがよくなったのはこれらの効果に違いあるまい。私の論点はいつも「C線の鳴り」だ。今の巨大ヴィオラ購入の原点でもある。顎当てを通じてツンツンと響く。
思うだに貴重なのは、職場のオケの発足だ。これが無ければ楽器を取り出すこともなかったはずだ。もしそうなら、この愛器はこのままずっと顧みられずに朽ちていった可能性が高い。オケに参加し、演奏会という具体的目標ができ、ヴィオラのメンバーが足りないなど課題も突きつけられながら、楽器の練習に打ち込めたのは本当に大きい。
演奏会の曲目のほかに、バッハをと思いたち、指慣しに弾くうちに楽器の課題が気になりだした。毎日練習し、手入れをしてきれいに楽器を保つ。このまま一生楽器をこつこつさわり続ける老後、そこにバッハがいることがどれほど幸福か。
昨年秋、職場のオケが発足して参加を決めた。このとき恐る恐る楽器を取り出した。ほぼ15年ぶりだ。見た目なんともなかったのでそのまま練習を再開した。がしかし、練習を繰り返すうちに気になることも増えていった。
弓の毛替え、弦の張り替えは不可避だと素人でもすぐわかる。微細な傷、よごれ、肩当てのゴム劣化、気になり出すととまらない。
15年放置の付けだ。罪滅ぼしにと楽器ショップに出向いた。
今の巨大ヴィオラの購入は1992年1月。32年前だ。メンテナンスは2005年くらいから近所のショップに頼んでいた。高校オケに進んだ次女のヴァイオリンのケアも合わせての家族ぐるみのお付き合い。裏板の張り替え、駒や魂柱の調整など踏み込んだメンテもお任せする楽器の主治医となっていった。
15年ぶりにそのお店に連絡をとると、なんとなんとまだその技術者が在籍していた。8月31日にお邪魔して楽器を見せると「そりゃあ覚えてますよ。46センチのヴィオラなんて忘れられませんから」と。こちらの懸念をお伝えし一通り見ていただいた。裏板のハガレが一部あるという見解だ。
結構な出費だが、15年放置の罪滅ぼしにはうってつけだ。
一昨日、仕上がった。7日ぶりの対面。
三位一体節後第15日曜日用かどうか疑わしいけれど、リヒター先生の選集ではこの位置にある「Was Gott tut,dasi ist wohlgetan」BWV100の事だ。ソプラノとトランペットの名人芸で、説法との関連がかすむBWV51と同じく、シュライヤー先生、ディースカウ先生の出番を彩る華麗な管楽器たち。フルートはオーレルニコレ、ペータールーカスグラーフの両先生にホルンのヘルマンバウマン先生という万全の体制にオーボエのクレメント先生も参加する。
つまり説法そっちのけ。
三位一体節後第15日曜日用「Jauchzet Gott in allen Landen」BWV51。全5曲全てに独唱があるソプラノ用カンタータの代表格。冒頭は名高いトランペットの超絶技巧まで楽しめる。当日の説法もそっちのけになりかねない名人芸の披露だ。
リヒター先生やマティス先生には本当に申し訳ないが私はアメリンク盤を愛聴している。
ブラームスの母の得意料理というよりデザート。ザルツブルガーノッケルという。野田シェフの「音楽家の食卓」でもきちんと言及される。少し詳しい伝記には載っていることもあるエピソードだ。244ページには鮮明な写真とレシピーが掲載されている。写真を見るのは初めてだ。
次はなんとか食べてみたいものだが、カロリーが高いのは見ただけでわかる。
各国の作曲家と料理で紐解くドイツという風情には関心するばかり。野田シェフの「音楽家の食卓」という書物の件だ。ブラームスを大トリにして作曲家への言及が終わった巻末に、各地のおすすめのレストランがまとめて載っている。一部カフェを含むそのリストは非常に興味深い。
その中で何がうれしいかといって行ったことがある店が一部含まれる。
ライプチヒのカフェバウム とアウアーバッハケラー だ。こりゃあ盛り上がる。
このほか、紹介されている料理を味わったことがあると盛り上がる。たとえばアイゼナハで食べたチューリンガーソーセージのグリル だ。
なんだか思い出す。
野田シェフの著書「音楽家の食卓」は、作曲家と料理という切り口ではあるのだが、その作曲家と料理を結びつけるアシストをするのに、都市が役立っている。作曲家なじみの都市の郷土料理に光を当てている。その都市にゆかりのある限り、食事はその土地の郷土料理を堪能していたに決まっているという論法だ。概ね以下の通り。
いやはやウイーンが多いこと。バッハとメンデルスゾーン以外みなウイーンに関係がある。ウイーンはオーストリアの首都だが、ドイツ語圏内ということで違和感なくなじむ。
ブラームスとて演奏会で訪れただけというならもっと多いはずだが、生活の拠点となるとこの程度。モーツアルト、ワーグナーあるいはショパンは非ドイツも多い。ていうか、ショパンは浮いている気がする。リストも違和感無しとしない。ブクステフーデ、パッヘルベル、テレマンとは申さぬがウェーバーを入れても良さそうだがいかがなものか。
ブラームスは時代が新しい割には地味である。
前著「野田シェフのドイツ料理 」では、人物を切り口にドイツ料理が紹介されている。その中でも作曲家は一大勢力となっているのに、ブラームスが入っていないと嘆いた。
ところが、この度の「音楽家の食卓」は以下の通り作曲家に言及がある。
めでたく復活当選となっているばかりか大トリを取っている。前著で落選し今回めでたく当選したのは、ブラームスのほかに、ハイドン、リスト、ショパンの3名。作曲家7名を11名に増やしているということだ。で、作曲家以外の人物はカットされた。話題を音楽に絞ったと言うことにほかなるまい。ブラームスが大トリなのは、生年順のせいなので特段に意図はないとはいえ、ひとまずうれしい。
三位一体節後第14日曜日用「Wer damk opfahrt,der Preiset mich」BWV17だ。リヒター先生の選集では、この祝日用が2曲入っている。こちらはBWV78に続く2曲目だ。
ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ先生の出番は短いレチタティーボが1回だけ。アリアはソプラノとテノールに各1回。例によってはクレメント先生のオーボエがさえる。
三位一体節後第14日曜日用「Jesu,Der du Meine Seele」BWV78。当日の説法は重い皮膚病の人10名を癒やすお話。
このBWV78は名曲の誉れが高いのに、ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ先生の出番がない。シュライヤー先生もマティス先生もお休みなので影の薄い印象になってしまっている。リヒター先生のお考えが聞きたいところだ。
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