予測不能
本日勤務最終日。定時出社の定時上がり。
貸与品の返却他、そこそこの挨拶まわり。何より最後の社食を味わう。
仲間たちの業務に支障が出ぬ範囲での会話。展開は予測不能だ。
予測不能と言えば、退職後の生活。42年10ヶ月に及ぶ会社生活だったから、やめた後を具体的にイメージ出来ない。土日が毎日続く感じなのかととぼんやりと思う程度。
開けよ明日。
« 2024年12月 | トップページ | 2025年2月 »
本日勤務最終日。定時出社の定時上がり。
貸与品の返却他、そこそこの挨拶まわり。何より最後の社食を味わう。
仲間たちの業務に支障が出ぬ範囲での会話。展開は予測不能だ。
予測不能と言えば、退職後の生活。42年10ヶ月に及ぶ会社生活だったから、やめた後を具体的にイメージ出来ない。土日が毎日続く感じなのかととぼんやりと思う程度。
開けよ明日。
実際には有休を利用してのプライベートだったから、「出張」という表現は当たらない。旅費も日当も支給されたりはしない。
28日から1泊で姫路に行ってきた。懇意にしていた取引先の社長を訪ね、最後の晩餐を楽しんだ。彼との出会いはもう20年以上前だった。無理難題を発しまくる私に、辛抱強く付き合ってくれた恩人だ。最後は彼との飲みを設定すると決めていた。
飲み会前の空き時間に書店に立ち寄って衝動買い。
古今の大作曲家がオーケストラをどのように扱ったかを切り口とした音楽史。最初の章だけはオーケストラに登場する楽器の構成を歴史的にまとめてある。これがまずは面白い。いわく「オーケストラの構成が固まるのに150年かかった」「歌が混じらぬ構成がこうまで栄えるのはレア」「器楽は声の代理代行から始まった」「ヴァイオリンの誕生こそ貴重」「擦弦楽器の表現力こそ肝」などなど。
著者はドイツの大評論家だが、和訳が巧みなのですんなり入る。
で、2章以降、個別の作曲家とオケの関わりに移る。ハイドンに始まって、途中で章を変えながら淡々と進む。
以上だ。メンバーを見てなるほどと感心。ブラームスがいてよかった。バッハはそりゃあおらんがかえって安心。ショスタコーヴィッチやラベルがいないのは意外。
最大の驚きはドヴォルザークがいないことだ。「異議あり」に近い感情。全体の論調がまともなのになぜという感覚。ここに割って入れぬドヴォルザークではないと思うのだが。とくに「9章ベルディ、ビゼー、スメタナ、チャイコフスキー、シベリウス」という章があるのだから。
いかんいかんムキになった。
一昨日長女一家が、昨日次女夫妻が我が家に来た。
話せば年末に遡る。12月29日急に発熱し、正月の集まりを見送った。母としては結婚66年目で初めての事態だが、ひ孫に感染させてもいけないと大事を取った。年明けて内科を受診して、肺炎と判明。延期は正解だったと思い知らされた。
そこで今回、延期になっていた正月の集まりの代わりにと娘たちを呼んだ。
そこで、母は娘らの好物の手作りハンバーグを振る舞った。近所のスーパーのお肉ではなく、百貨店に出店している有名ブランドのお肉をわざわざ土曜の朝一で買いに出かけての仕込み。
ご覧の通りの手際。90歳の手ごね。レシピは完全に脳内にあって、メモ無しの離れ業。我が家の子供たちはこれが大好物である。娘らの婿さんたちにも一度は食べさせたいと願っていたという逸品だ。
つけあわせの焼きポテトやマカロニサラダもばあちゃんの手作り。
案の定みな絶賛だった。これを「ひ孫に食べさせて」という長女からの提案に「何年後かねえ」と首をかしげながら、満更でもなさそうな母。
正月のリベンジ。
世の中どうなっているのだろう。
私は、大学入学と同時にオケに入団し、ヴィオラを始めた。それ以前、レコードを通じてクラシック音楽に親しんではいたが、楽器の演奏経験は皆無と言っていい。小中高の音楽の授業でハモニカ、あるいはリコーダーに触れた程度。演奏経験とまでは言えない。
事実上初めての楽器がヴィオラだった。ピアノはもちろんヴァイオリンも経由せずにヴィオラを選んで、そこから46年飽きずにヴィオラをいじっている。ヴァイオリンを経由しないヴィオラなのでハ音記号になれるのが早かった。楽器の大きさから来る違和感を感じることもなかった。
子供の頃楽器を習い始めていたら、最初の楽器にヴィオラを選んでいたかは、相当怪しい。大学生からという絶妙なタイミングでオケの門を叩き、たまたま部室にヴィオラの先輩がいたという偶然に、感謝がとまらない。
満65歳到達記念に、自分音楽史をまとめておく。
本日は私の65回目の誕生日。いつもの誕生日と同じなのだが、勤務先の規定が「満65歳の誕生日がある月の月末」を嘱託満了の日と定めているせいで、特別な日になってしまう。
65年前私を産んだ母から朝一番で「おめでとう」と言われた。
その母をはじめ、子や孫に囲まれて幸せな上に、そのことをもうかれこれ20年も続くブログ上で記事に出来る。
そして、最近それらにバッハとヴィオラが加わった。豊かな老後の仕込みがちゃくちゃくと進んでいる。
もはや必需品のスマホに母は背を向け続けてきた。頑としてガラケー。どうせ機能を使いこなせないからという理由。
ところがだ。ひ孫が生まれ、毎日の成長ぶりを画像共有アプリで見ることが出来るようになって、風向きが変った。私のスマホに届くひ孫の動画を楽しみにしている。一人でスマホに話しかけている。動画が終わるとまた再生をと画面に触れている。スマホの操作に拒否反応を示していたが雪解けもいいところだ。
革命だ。
誕生日は年に1度でもないようだ。とくに1歳未満の赤ん坊の場合は、最初の1年を刻む。成長を見守る節目は多いほどいいのだろう。
本日は、我が初孫の満6ヶ月の誕生日。2分の1バースデーだ。昨日ケーキで祝っておいた。それようのローソクもちゃんと売っている。
愛用中の巨大ヴィオラを老後の楽しみの支柱に据えてはいたが、それが1877年ドイツライプチヒ製だとわかって舞い上がっている。
この楽器を1992年に買い求めたとき、100万という価格に後ずさりが止まらなかった。たしか1991年12月だった。1992年3月に長男の出生を控えて、この出費はあり得ぬと。
そこで「買おうよ」と言い出したのが今は亡き妻だった。子供が年頃になり養育費学費がかさんだら絶対に買えない。ましてやマイカーや住宅ローンが降りかかるかもしれない。今ならなんとかなると背中を押してくれたのだ。
私との結婚のために退職した関係で失業保険が下りたと、購入資金をアシストしてくれた。
その楽器を15年放置していた罪深い男が私だ。そして職場のオケ発足が、地獄の淵から楽器を救い出してくれた。
単なる巨大楽器ではないということだ。縁と感謝でできている。
愛用中の巨大ヴィオラが1877年ライプチヒ製のヴィオラだとわかった。ラベルの内容を正確に読みきれていないが、制作年と場所だけは確実かと思われる。
まず嬉しいのは1877年という年代。その年の1月18日だから148年前の昨日、ブラームス第一交響曲のライプチヒ初演があった。楽器を買い求めたころ既にブラームスに傾倒していたから、この年代がブラームス存命中というだけで驚喜していた記憶がある。
加えてだ。「Lipciae」がライプチヒで、楽器の製作場所だとなるとさらに興味深い。申すまでもなく同地はバッハゆかりの土地。最後の数十年をトマスカントルとして過ごしたからだ。1877年といえばバッハが同地で没してから127年が経過しているが、音楽界におけるライプチヒの威光は揺らいでいない。
楽器を買った当時、「Lipciae」がライプチヒだと分かったとしても、ここまで盛り上がったかどうか不明だ。当時まだバッハへの傾倒が起きていなかったからだ。
バッハゆかりの土地で製作された楽器をもって、バッハに打ち込む老後というだけで、アドレナリンが充満する。
これを幸せと言わずになんという。
気になり出すと止まらぬ。
愛用中の巨大ヴィオラのラベルのことだ。人名以外ラテン語でお手上げだがネットで意味を調べてみた。1992年にはこの手の調べ物が難儀だったが、今はスマホで手軽になっている。
以下、出現順に列挙する。
ラテン語の構文にうとい。例えば「filius Ludvici」が「息子ルートヴィッヒ」なのか「ルートヴィッヒの息子」なのか見当がつかぬ。「frater」が兄弟という意味はわかったが、関係は不明。ルートヴィヒさんとオットー・バウシュさんの関係もわからぬ。
「Lipciae」は微妙。ライプチヒのラテン語形は正確には「Lipsiae」だそうだ。語中の「s」が「c」に置き換わっていてもライプチヒを意味するのかなお、検証がいるかもしれない。
もし「jun」が「6月」なら、1877年6月になるのかどうか。1877と「jun」の記載が離れているのが気がかりだ。
以下私の希望込みの解釈。
「オットーバウシュの息子、老いたルートヴィッヒとその兄弟が1877年6月にライプチヒでこれを制作した」
妻の形見のヴァイオリンがどうもフランス製らしい。高校まではピアノだったが、大学入学とともにオケにはいってヴァイオリンをはじめた程度のことしか聞いていなかった。
いつどこでヴァイオリンを買い求めたのか聞いておけばよかった。そこから記事がいくつかひねり出せたに違いあるまい。f字孔からのぞき見た古びたラベルの記載だけで、妄想が膨らむのだから、エピソードや蘊蓄がそこに添えられれば、ロマンめかしたテイストもほのめかせたに違いない。
長女は6歳からヴァイオリンを習い始め、中学生になるころ分数ヴァイオリン卒業と同時に、妻の形見のヴァイオリンを弾き始めた。
その長女が昨年母になった。もしかすると我が初孫がこのヴァイオリンを弾く日が来るかもしれぬ。分数ヴァイオリンの卒業後となると最低10年は先の話だ。孫に弾かせる楽器、ヴィオラとヴァイオリンどちらも可能ですとばかりに待ちだけは広げておきたい。
亡き妻のヴァイオリンは、長女が中学生まで使っていた。その後放置されているので、かれこれ18年になる。
私の前のヴィオラを年末年始に取り出してf字孔から見えるラベルを観察したので、妻の楽器についても覗いてみた。
Mirecourt1824あるいは1821と読める。おおってなもんだ。1824年製だったとしても200年経過しているではないか。ミルクールと言えばフランスの一大楽器産地。ハンドメイドの他、量産品の大供給拠点として有名だ。現代における相場は幅がひろくて特定が難しいが、50万円~150万円ともいう。
妻がこの楽器を入手した時期は不明だ。大学に入りオーケストラに入団した後に購入したことは確実だから1981年よりは遡るまい。
まずは「テンプル」の説明が不可避か。
「こめかみ」のことではあるのだが、眼鏡のフレームの部品の名前でもある。耳にのっかる部分の棒とでも記憶すればいい。多くの場合、人のこめかみの横を通過することが、命名の根拠に違いあるまい。
木製好きの私は以前から眼鏡のこの部分が木製の製品がないか気にしていたが、なかなかたどり着けなかった。デパート、専門店にはあまり在庫されていない。
昨日、話題 にした救世主の眼鏡ショップであっさり見つかった。それもかなりの品揃え。81歳の店主自慢の逸品だそうで一際濃厚な説明があった。レンズをはめ込む部分はメタル製で、テンプルが木製。テンプルとの繋ぎの部分が凝った作り。いかにも職人技だ。
結論から申せば、衝動買いしてしまった。
見ての通り、楽器の木目になじむ。
演奏会当日、集合時間の2時間前にフレームがはずれたトラブルの修理は、店主が神様か救世主のような手際で15分で終わったのだが、待っている間に店頭の陳列を見ていて目にとまった。生粋に国産で、なんとこれら木製テンプル品にだけ値札がついていない。「時価」とでもいわれるのかと恐る恐る値段を聞くと、「α万」と。「レンズ込みでか?」。それなら安い部類ではないかと直感。話が弾むうちにさりげなく値引きの交渉になり気づいたら「税込みでβ万」に負けてもらった。そそくさと視力の測定に移り、「遠近」ならぬ「中近」を薦められた。嘱託満了で楽器に打ち込む話を考慮してくれたらしく、70センチという楽譜距離最適が「中」で実現し、「近」でスマホ距離をカバーという寸法だ。
すこーしだけ耳が遠いくらいで、測定に基づいて実用性を判断する思考とそれを私というユーザーに説明するトークの切れ味は、81歳とも思えない。
過日その眼鏡ができあがった。これでバッハに打ち込める。救世主のくれた眼鏡。
昨年末に開催された職場オケの初コンサート。盛会のうちに終了し、打ち上げになだれこんだ。子らの世代の仲間と最後まで盛り上がった。
ではあったが、実は当日神様がハプニングを用意していた。
夕方からのコンサートではあるのだが、当日は通常勤務でもあった。午前のデスクワークを終えてランチのあと立ち上がろうとした瞬間、眼鏡が床に落ちた。「へっ?」てなもんた。拾い上げてみるとテンプルがはずれていた。小さなビスが紛失していたのだ。中学以来の長い眼鏡生活だが、こんなことは経験がない。あたりを探してもその小さなビスは見つからない。
スペアの眼鏡は自宅。どうしよう。時計を見ると14時。急遽フレックスタイムを申請して自宅に取りに戻ろうにも、買い求めたショップに行こうにも時間がない。
スマホで近所の眼鏡ショップを検索したところ、職場から徒歩5分のところにあった。
フレックスタイムだけはそそくさと申告してショップに急行した。小さな雑居ビルを訪ね、恐る恐る事情を話すと、ニコニコと応じてくれた。一旦バックヤードに入っていったが、しばらくすると「ピタリと来るサイズのビスを探すのに手間取りましたが」、といいながら戻ってきた。
いかがですかと話す感じが気さくなおじいちゃんと言う感じで神様に見えた。実はこのあと演奏会で云々と事情を説明すると、奥から楽譜をもってきて「音符が読めますか?」と目の前にたててくれた。それから話がはずみ、彼が昭和18年生まれだと分かった。80歳超えているが、このショップの社長だった。
46年前と比較しながら大切なことを忘れていた。
それは当時は若かったことだ。46年前デビュー演奏会当日私はまだ18歳だった。若い。
あれから46年たって歳を46積み重ねた。その分、経験や知識が堆積した。作曲家や作品あるいは演奏家への理解や敬意が格段に深まった。何より汗水垂らして働いたお金で今の巨大ヴィオラを買い求め、ヴィオラへの生涯の忠誠を誓った。
その過程でブラームスが台頭した。ましてや今、ここにバッハまで加わろうとしている。
18歳当時開けていた揚々たる未来が縮小したことと引き換えに歳を重ねたが、知識と経験がこれに置換されたと見るべきだ。15年放置から目覚めたヴィオラでそれらを生かしてゆく老後。これを光り輝くと形容したら神様が嗤うのだろうか。
46年前のブラ2デビュウと今回の職場オケ初コンサートにおける我が身の変化を比較している。
<変ったこと>
<変らぬこと>
少々の補足。46年前の私の脳内リーディングコンポーザーはベートーヴェンだった。ブラームスは未知の作曲家。好き嫌い以前で「どうでもいい作曲家」であった。だからかえって公平に練習に打ち込めた。
所属オケにおける位置付けは大きく変った。大学オケ当時、現役合格かつ早生まれの私はほぼ最年少だったが、職場オケでは余裕の最年長。
やっぱりこうして冷静に比較列挙してみると巨大楽器とバッハの存在は大きいかとつくづく思う。
楽器演奏上達の度合いの話。
大学入学と同時にはじめたヴィオラだったが、翌年1月の定期演奏会でブラームスの第二交響曲を弾いた。「弾いた」という断言にはいささか後ろめたさも残る。ちゃんとは弾けていないことは確実だが行きがかり上「弾いた」とした次第。先輩に導かれての10ヶ月の上がり幅を今、思いやっている。
一昨年、職場にオケが発足することになって、15年ぶりに愛器を取り出して音を出してみたときの絶望感は記憶に新しい。網膜剥離の手術と相前後して練習を再開した。昨年夏に職場オケの初コンサートの年末開催が決まってさらに気合いを入れた流れは既に何度も述べてある。「マイスタージンガー」「花のワルツ」「フィンランディア」に真摯に取り組む中からあっと驚くバッハが急浮上した。コンサートの演目そっちのけでバッハに取り組んだことが、今回のポイントだ。
46年前の上がり幅と、今回の上がり幅どちらが急なのだろう。46年前大して弾けてもいなかったのと同様今回だって誉められたものではない。演奏会本番の弾けた度合いは似たり寄ったりだろう。
本番の出来以上に、練習の過程で起きたバッハとの接触が、ブラ2デビューに比肩するとまで感じさせる原因である。
母が年末に体調を崩した。29日に39.1度の発熱があった。なんとか解熱剤でしのいだ話は既に述べたが、9連休明けの一昨日、かかりつけの医者に診せておどろいた。
念のために行った胸部レントゲン撮影で、肺炎の痕があると指摘された。既に咳も出ず、熱もなく、おまけに血中酸素濃度も異常なしなので、肺炎としては治癒段階。この状態ですと年末30日か31日あたりは苦しかったでしょうと言われ、確かにと納得。元日に小康を得てという記憶と妙に一致する。何よりの効果は、かかりつけ医に診断してもらったことそれ自体。大型連休の負の側面だったが、これで心の平穏が戻る。
念のためにと一週間分の抗生剤を処方されて帰宅。服用して1週間何事も無ければ、ひ孫とあってよろしいと言われて安堵。ひ孫に感染させてはならぬとばかりに、年始の挨拶をキャンセルした判断は結果として正解だった。
1979年1月7日。大学オケでの私の初舞台だった。ブラームスの第二交響曲がその素材。これこそが今に至るも揺るがないブラームスラブの源泉である。
前年4月10日の入団で、ヴィオラをはじめた私がそこから10ヶ月でブラームスを弾いたということ。ゼロからヴィオラをはじめてたどり着いたのがそこだった。
今になってそのことに言及するには深い訳がある。職場オケの発足とそこへの参加によって復活したヴィオラ演奏によって、1年間熱心にヴィオラを練習した。15年のブランクによる劣化からの復旧作業だった。
ゼロから初めて10ヶ月目のブラ2デビュウへの坂道と、この1年の取り組みの坂道を今、心の中で比べている。46年前の坂道にも匹敵すると感じているからだ。
今のヴィオラを買い求める前に弾いていたヴィオラは今も手元にある。購入代金のたしにと売ることも考えたが思いとどまった。1981年に買い求めたドイツ製であることは述べた通り。1979年西ドイツ製とあるのが感慨深い。ドイツが東西に分かれていた頃の名残。今の若い人にいっても「はあぁ?」ってなものだ。
1992年に今の楽器を買ってからパタリと弾かなくなった。2013年くらいから5年間知人に貸していたが、楽器のためにはその方がいい。2018年から弾いていないので、この正月休みに弾いてみた。
唖然愕然。
練習中のバッハを弾いてみるのだが、ぜんっぜん弾けません。今の巨大ヴィオラの取り回しに慣れるべくずっと練習していたから指も腕も巨大ヴィオラに慣れてしまっている。
この違和感は実は巨大ヴィオラへの傾注の副作用みたいなもの。もう普通サイズには戻れそうもない。ある意味当然である。
母が年末年始に体調を崩して寝込んだ。会社生活最後の正月休みは9連休なのだが、年末の買い出しも新年の来客もなくなってみると暇だった。母が小康を取り戻した元日から、3日間、ヴィオラの練習がたっぷりできた。母の寝室と私の部屋は2階至近なので音量を気遣った。
バッハの無伴奏作品を片っ端から弾くのだけれど、ダイナミクスをピアニシモに自主規制した。大きな音は出さないと決めて3日取り組んだ。
転んでもただでは起きぬドアマチュアで、いやはやこれが絶大な効果。
普段どれだけ余計な力が入っているか身にしみた。難しいところほど力む。重音も力む。何より弾いている自分がどれだけ自分の音を聞けていなかったかわかる。考えれば狭い自室での老後ヴィオラ生活にとってフォルテは不要だ。ヴィオラらしい音は不可避不変の目標ながら、それは断固フォルテを意味しない。きれいな音、優しい音で充分ではないか。
これからもずっとピアニシモ限定でよいのではと思えてきた。
65年の人生で初めての異変が昨年末に起きた。
年末12月29日のことだ。母が突然発熱した。朝37.5度だったが午後には39.1度にまで跳ね上がった。数年に一度の暦の巡り合わせて年末年始9連休を謳歌する世の中だ。かかりつけの医者はもうやっていない。当番医は車で60分かかる。救急車も覚悟した。
ときおり体調を崩して寝込む母だが、年末年始にという記憶がない。母に聞いたら結婚66年で初めてだときっぱり。
30日に予定しておいた年末の買い出しは見合わせ。当然元日の娘たちの里帰りも延期になった。孫に感染させるわけにはいかない。
なんとか元日には小康を取り戻した。
物は考えようだ。もしこれが2週間前、職場オケの山場で起きていたら大変だった。正月休み突入後だったおかげで、母にずっと付き添ってやれた。最後の正月休みを母に捧げなさいという神様の断固たるメッセージに違いない。あるいは、嘱託満了後たっぷりと母に寄り添いなさいということかもしれぬ。
昨日の記事「最初が肝心」で述べた通り、ヴィオラ練習の断固たる継続が今年の課題だ。
新年の到来とともに深夜に初練習を試みた。家人みな寝静まる時間帯だから、静かな曲を15分だけ。バッハ、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータのヴィオラ版から1曲。ソナタ3番BWV1005から第3曲ラルゴだ。オリジナルのヴァイオリン版の5度下のBdur。16分音符を1拍にとってメトロノームをセットして淡々と弾く。
時折混じる重音やトリルが課題だが、弾ける余裕のあるときだけとしながら、しっとりと旋律を楽しむ。ただただ脱力。ほんのりヴィブラート。「p」の手のひらの上でニュアンス1個の出し入れに終始する。
初詣あるいは書き初めにも匹敵する「お弾き初めの儀」である。
昔の人はよいことを言う。「1年の計は元旦にあり」だ。まあ一日前の大晦日には「終わり良ければ全てよし」とも言われているからなどと、野暮な突っ込みはぐっと飲み込む。
今回私がそのことを強く意識したのは、ヴィオラ練習だった。昔も今も腕前に傷を持つドアマチュアの私にとっていつも演奏会が生活の節目だった。オケに打ち込むあまり演奏会の後にぽっかりと心の空洞ができる。ぽーっとしてしまうのだ。ヴィオラの練習もどっこいしょとばかり一段落してしまう。
今回はこれを恐れた。
幸い職場オケの初コンサートは金曜日だったから翌日は休み。ここで意図的にヴィオラを触った。演奏会の演目の楽譜をしまう一方、毎度毎度のバッハをゆるりと取り出していつも通りメトロノームでさらう。かれこれ2時間。通常より1時間多めだ。
職場オケの演目がなくなっても、練習だけは続けるのだよと、心と体に言い聞かせたということだ。
あけましておめでとうございます。
最近のコメント