退職1年
思えば去年だ。あっという間に一年が過ぎた。65歳になって最初の月末。
その間、後任の仲間から月に何回か問い合わせを受けた。懐かしい懐かしい問い合わせだ。
あと何回問い合わせを受けるのだろうか?
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思えば去年だ。あっという間に一年が過ぎた。65歳になって最初の月末。
その間、後任の仲間から月に何回か問い合わせを受けた。懐かしい懐かしい問い合わせだ。
あと何回問い合わせを受けるのだろうか?
よい会社だった。今思うと。
何がって、ここ1年最後に過ごしてきた会社だ。最後の職場ということもあり、何かと素晴らしい仲間に恵まれた。
特に、最後に業務を引き継ぐ側になって、後輩に恵まれた。
結婚をしないという生き方、または考えのことか。
ブラームスは希にこう評されることがある。菜食主義といえば、自らの意思で肉食を忌避しているというイメージで問題がなかろう。これに対して独身主義というのはやや違和感がある。
先に「結婚しない」という意思決定があり、それに律儀に従った結果生涯独身だった場合には、それでも良い。出来れば結婚したいと望みながら、そのときそのときの事情のために結婚に至らず、結果として生涯独身であった場合、これを「独身主義」と形容してよいのか疑問だ。
ブラームスはクララから「気立ての良い娘さんを見つけてお嫁さんをもらったら」と言われていた。何だか切ない。ブラームスが「あんたに言われたくねぇよ」と反論した記録は見当たらないが、喉元まで出かかっていたとしても不思議ではない。クララへの無言の反論が、生涯独身であったかもしれない。
ブラームスを独身主義者と呼びたくはない。
音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第3巻179ページ。チャールズ・スタンフォードの証言だ。
ブラームスがピアノ協奏曲第1番を指揮者として演奏した時のことだ。4分の6拍子の第1楽章を「均等でない4つ振り」をしたとある。「-∪-∪」という具合に振ったと棒の軌跡が示されている。「1小節をいくつに振るか」という意味の「4つ振り」であるが、特に断りがない場合各拍は均等であることが常識だ。だからこの振り方が常識外であることを「均等でない」という言葉が表現している。「それって結局6つ振りじゃあないの」という突っ込みはこの際棚上げだ。
「この4分の6拍子は、得てして2つに振られて速くなり過ぎるか、6つに振られて停滞する」と続けるスタンフォードは、ブラームスのこの「均等でない4つ振り」を賞賛する立場だ。ハーフスピードの4分の6拍子の難しさは、古来第3交響曲の第1楽章でも指摘されてきた。常識外の振り方を選択したブラームスにも、この手の4分の6拍子の難しさが判っていたと解したい。
ブラームスの伝記を読んでも、指揮を誰かに習ったという記述は見かけない。デトモルトでの合唱指揮の経験や、ジンクアカデミーや楽友協会芸術監督としての経験から習得されたものと思う。
実際に見てみたい。
「molto」が「Allegro」を煽っていると解して誤ることはあるまい。プレーンの「Allegro」よりはテンポが上がると考えてよい。ブラームスの楽譜上では「Allegro」に何らかの用語が付着する場合、テンポを煽る方向よりは、抑える方向の方が頻度が圧倒的に高い。「non troppo」がその代表格だ。つまり「ブラームスの辞書」が言うところの「抑制系の優勢」である。
とはいえ「molto」によって「Allegro」が煽られるケースがない訳ではない。「Allegro molto」「Molto allegro」である。「Allegro」が「molto」によって修飾されるのはほぼこの2例に尽きると思っていいのだが、実は第3の事例が一つだけ存在する。「オルガンのためのコラール前奏曲WoO10」の冒頭だ。つまり本日のお題「Allegro di molto」である。
「tempo di menuetto」でおなじみの「di」が「Allegro」と「molto」を結びつけている。「di」は英語で言うところの「of」に近い。ビートルズ末期の絶唱「Let it be」の中に「speaking words of wisdom」というのがあった。「of」のノリとしてはこれと一緒だと思う。
「モルトのアレグロ」という雰囲気だ。「Allegro molto」や「Molto allegro」に比べて意味が大きく違うとも思えない。思えないが、だからこそ何故書き分けたのかが気にかかる。
この手のやんちゃな感じがする言葉遣いが大好きである。根拠のない直感だが、語感からして少し穏和な感じがする。
ブラームスが10代に達する前から読書にふけっていたことは、少々詳しい伝記には大抵載っている。小遣いを巡回図書館の会費にあてていたとも指摘されている。
後年ウィーン楽友協会の重鎮になった後、そこの蔵書は見放題だったと思われるが、演奏旅行等で訪れた土地でも情報収集に余念がなかった。
さて10歳でマルクゼンに師事するようになって、週一回師匠の家に通うようになると、そこにある膨大な楽譜や書籍に夢中になったようだ。ベートーヴェンの交響曲を筆写したとも伝えられている。
そして20歳でシューマンに出会うと、シューマン邸にあった楽譜や書籍が興味の対象になった。楽譜や書籍の整理を買って出たらしい。
師匠とは言えないが、詩人ヴィトマンや高名な外科医ビルロートの蔵書もブラームスの発掘作業の現場だった。ヴィトマンは、ブラームスが毎度大きな旅行鞄を持ってやってきては、蔵書を借り出していったと証言する。
個人の蔵書は、その人の個性を色濃く反映する。マルクゼン、シューマン、ヴィトマン、ビルロート等あらゆる地位立場の人々の蔵書に接することで、結果としてバランスの良い知識を効率的に吸収出来たと推測される。
そして今、そのブラームス自身の蔵書は、「ブラームスの遺産」としてウィーンの楽友協会に手つかずで保存されている。無数の書き込みとともにである。
昔の言葉の辞典。何も断り無く用いれば昔の日本語が対象だ。高等学校に入って古典の授業に接するようになると必須のアイテムになる。江戸時代の「奥の細道」も平安文学も1冊でカバーとは効率がいい。
最近ドイツの地名や民謡にドップリと浸かっているとしばしば「古ドイツ語」という言葉に出くわす。地名の由来やら語源を調べると「古ドイツ語」が引用されていることも少なくない。そうなると通常の独和辞典ではお手上げだ。現代ドイツ語と現代日本語がいくら対照されていても無意味だ。どこかに独和古語辞典があればいいのだが。古ドイツ語の単語が現代日本語と対照されているとありがたい。
昨年65歳になっていらいまた誕生日だ。とうとう1年たったが、あっという間だった。
実は実は、引き継いだ後輩の出来が素晴らしく、ただただ思うに任せればいい。初孫の成長を楽しみにしている。
AUDIA3の初車検だ。
タイヤがボロボロで、やむなく交換。これが痛い。14万数千円。
税金などは、致し方ないとしてタイヤだけは困った。
まあしかし、後2年また大事に乗れる。
「Doppel」と綴られるドイツ語。「2倍の」という意味だなどと申し上げるよりは、英語のダブル「Doble」に相当すると言ってしまうほうが早くて確実だ。
弦楽器の重音奏法は「Doppelstopf」つまり「ダブルストップ」だし、二重協奏曲は「doppel Konzert」だ。JSバッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」ニ短調がとりわけ名高い
さてさてブラームスにも「Doppel Konzert」があるとお思いの向きも多い。作品102を背負ったブラームス最後の管弦楽曲のことだ。CDや書物にしばしば「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」と記載されている。不思議なことにマッコークルの作品目録では「Konzert fur violine und violloncell mit Orchestra」と記載されている。「ヴァイオリンとチェロのためのオーケストラ付きの協奏曲」といった内容だ。「doppel」という単語が見当たらないのだ。問題の「Doppel Konzert」という単語自体をブラームスが本当に使ったかどうか怪しいという点、留意しておきたい。
幸いなことに作品の素晴らしさには全く影響がない。
作曲の過程を想像して欲しい。
まず作曲家の頭の中に音楽が鳴る。作品全部かもしれないし主題の断片かもしれない。いずれにしろそれは「楽想が浮かんだ」と表現される。世間様にそれを知らしめるためにはまだ不十分だ。楽譜という形にダウンロードする工程が残っている。その間に作曲家の頭の中である判断がなされる。「浮かんだ楽想を、最も効率的に表現出来る編成は何か」である。あるいは、まず編成ありきで、楽想がそれに遅れて思う浮かぶこともあるだろう。浮かんだ楽想と編成は最適の組み合わせでないと、期待通りの効果は得られないと考えるべきだ。
上に列挙した4曲は、現在残された形態とは、別の形態を経由して完成に至っている。当初選定した編成がベストではなかったとブラームスが認めた可能性がある。これをもって「創作初期の迷い」「若書きの痕跡」と断ずるのは早計だ。作品番号を見る限り初期の作品ばかりにその証拠が残っていることは事実だけれど、それは証拠隠滅のスキルが未熟だっただけかもしれないからだ。あるいはその点が甘かった作品は全部破棄に回った可能性もある。
ワーグナーはしばしば「楽想と編成がマッチしていない」とブラームスを批判した。曰く「室内楽の楽想でしかないものが交響曲として提供されている」という論旨だ。
大きなお世話だと思う。ワーグナーとワグネリアンには悪いが、ブラームスはそうしたアンマッチには厳正に対処していたと思う。むしろそうした点のバランス感覚においては比類のない存在だったと確信している次第である。
ブラームスは変奏曲の大家だ。変奏曲が創作の柱の一つになっている。「~の主題による変奏曲」というタイトルを持つ作品は作品56「ハイドンの主題による変奏曲」を最後に姿を消す。しかし創作人生の最後まで変奏の手法自体が放棄されることはない。多楽章形式の作品の単一楽章がまるまる1曲変奏曲になっている例は、土壇場のクラリネット入り室内楽にまで盛り込まれる。
変奏曲自体が創作の目的になっていたのは「ハイドンの主題による変奏曲」までだ。それ以降「変奏曲」は、ブラームスの楽想を効率的に聴き手に伝えるための手段の域を出なくなる。ブラームス自身当代屈指の変奏曲の大家ながら、習得した作曲技法を振りかざすことを目的にした曲を書かないということだ。楽想が変奏曲の形態を求めた場合のみ必要最小限が用いられるのだ。
フーガも事情が似ている。フーガの文字がタイトリングされるのは作品24「ヘンデルの主題による変奏曲」のフィナーレが最後だ。その後の作品中に明らかにフーガの手法が用いられることはあっても「フーガ」そのものが作曲の目的であることがなくなるのだ。晩年に「大フーガ」を書いたベートーヴェン、「フーガの技法」を書いたバッハの姿勢とは一線を画している。ブラームスにとって「フーガ」は実験の対象ではない。
そういう意味では楽器演奏のテクニックも同様だ。作品が求める時に必要量だけを取り出して見せるのがテクニックだという立場である。「変奏」も「フーガ」も「テクニック」も目的ではなく手段である。
エリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルク(旧姓シュトックハウゼン)は、ウィーンでブラームスに師事した女性。弱冠16歳の彼女の美貌と才能に恐れをなしたブラームスは、その指導をユリウス・エプシュタインにゆだねてしまう。リーズルの愛称で知られる彼女は、後に作曲家ハインリッヒ・ヘルツォーゲンベルク結婚してライプチヒに住み、ブラームスとの交流が再開する。およそ300通もの往復書簡は圧巻である。op69以降の作品研究には欠かせない資料となった。音楽的な洞察力を愛したブラームスは、しばしば新作の草稿を送って批評を乞うた。リーズルはいつも健気にそれに応えた。
あるとき「作品のすばらしさを誉めるための言葉を思いつかないことがしばしばあるのに対して、粗探しのための言葉はいくらでも思いつく」と書いた。ブラームスは作品への賞賛よりもむしろ彼女の粗探しを欲していた節がある一方、その助言に従って改訂したことが無いのもブラームスらしい。
音楽之友社刊行の作曲家◎人と芸術シリーズのブラームスに興味深い記述がある。136ページだ。1878年1月18日だから今日からちょうど132年前になる。
ハンブルクフィルハーモニーの演奏会で完成間もない第1交響曲が取り上げられたのだ。この演奏会にはブラームスの故郷への凱旋というイメージがついて回る。恩師のマルクセンやハンブルク女声合唱団のメンバーを始めとするゆかりの人々が客席につめかけた他、オーケストラのメンバーにも旧知の仲間がいた。デトモルトのコンサートマスターのバルゲーアもいたが、彼はコンサートマスターを務めることは出来なかった。なぜなら、ヨーゼフ・ヨアヒムにその席を譲ったのだ。
ということはつまり、第1交響曲の第2楽章に存在するコンサートマスターのソロを、ヨアヒムが弾いたということに他ならない。ヨアヒムに捧げられたヴァイオリン協奏曲はこのときまだ世に出ていない。だから第1交響曲はオーケストラの中でヴァイオリンの独奏を聴くことが出来る唯一の機会だった。
そしてブラームス本人は指揮台からヨアヒムのソロを聴いたのだ。
この時から1年もたたぬ1879年1月1日。ヴァイオリン協奏曲はそのヨアヒムを独奏に迎えて初演された。実質わずか1年で完成されたのだ。第1交響曲のソロパートをヨアヒムが弾くのを聴いて、ヴァイオリン協奏曲の構想が具体化したと考えるのは無謀だろうか。
ブラームス指揮、コンサートマスターヨアヒムの第1交響曲、しかも演奏はハンブルク・フィルハーモニーだ。滅多にないインスピレーションが湧いても不思議ではない。
「ben legato」という表現がある。ブラームス作品に6回現れる。下記の通りだ。
鮮やかなことに全てピアノの楽譜の上である。一般に「十分レガートに」と解されるが、一方で「非常にレガートで」と解される「molto legato」も2箇所存在する。「molto legato」を含む語句ということになるとさらに8箇所が加わる。これも「オルガンのためのコラール前奏曲」op122-10を唯一の例外として全てピアノの楽譜の上である。
何にも修飾されない「legato」もまたピアノの楽譜に集中している。ピアノ以外のパートに現れる「legato」は大変異例である。
ブラームスのピアノ演奏の本質は並外れて繊細なレガート奏法である。基本的にピアノ演奏はレガートでなければならず、レガートでは困るところに「non legato」を配した。さらに、レガートの継続が絶対に必要な場所や、レガートが途切れがちな場所に「legato」と書いた。そしてさらに念を押すのが「molto leagto」や「ben legato」なのだ。
これらがどう区別されていたのか用例の分析からは判然としない。「レガートの度合いを増せ」が「molto legato」で、「くれぐれもレガートで」が「ben legato」かもしれないが、根拠は薄弱である。
今回はその同名異曲について言及する。
「3つの四重唱曲」op31の3番に存在する。つまり作品31-3だ。タイトルは全く同じ「Der gang zum Liebchen」(あの娘のもとへ)だが、op48-1とは違ってヴェンツィヒによるボヘミア民謡のドイツ語訳がテキストになっている。
ここでわざわざ言うくらいだから気に入っている。ソプラノ、アルト、テノール、バスという組み合わせの醸し出すハーモニーが素晴らしい。加えて「ブラームスの辞書」的にもお宝標記が頻発する。
それにしてもこの作品31の3曲は素晴らしい。
「同じテンポで」と解される。「何と同じなのか言及が無い」などど突っ込んではいけない。「今までと」という部分が省略されているのだ。
初期のピアノ用変奏曲の国内版の一部の楽譜に、ヘンレ版には存在しない「L'istesso tempo」が書かれているので注意が必要である。
それにしても上記1は、奇妙だ。「今までと同じテンポで」という意味なのに作品の冒頭に出現しては具合が悪かろう。これにはブラームスならではのカラクリがある。op19-2「遠い国で」は、その直前の「別離と辞去」op19-1の続編になっている。テキストがそうなっているのだが、それに付与された音楽も巧妙なエコーになっている。だからこの「L'istesso tempo」は「前の曲と同じテンポで」という意味なのだ。
さすがブラームスだ。若いのに芸が細かい。
暗譜の話題はブログ「ブラームスの辞書」の中でしばしば現れる。今までは演奏家の立場からの話だった。今回は指揮者の立場から見た暗譜の話だ。
音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻148ページと153ページ付近。ホイベルガーの回想に現れる。
ブラームスはベートーヴェン作品の暗譜を容易だと述べている。同時にハイドンは難しいと仄めかしている。作曲家によって暗譜の難易度が違うという認識だ。ブラームス自身はドヴォルジャークの新世界交響曲を暗譜していたことが判る。ホイベルガーはブラームスの指揮が大抵暗譜だったことを明言しているが、指揮台にはありあわせの楽譜が置かれていたと証言している。「カッコをつけていると思われないため」というブラームスの見解も添えられている。
暗譜で指揮をしていると、「カッコをつけていると思われる」ことがあると判る。
昨夜18時頃、A線切れた。
うーん。こりゃあ困った。
19時くらいになんとか直した。気合いを入れて直した。
でも、これってもしかしてWarchalに折り合いを付ける意味で、良かったかもしれない。
C、G、D、A全てみなWarchalだった。これで大好きなA線が少なくともラーセンに代わる。もしかしてこれってよいことなのかも知れない。
「ブラームスの辞書」を預けている。
今般都内で預けているお宅から、「ブラームスの辞書、手に入る方法はありますか?」と吉報が入った。かくかくしかじか、都内で入手したいということだ。ご自宅の物を先に渡していただいて、2冊持って行った。
「この本、サラリーマンをしながら作ったとは、素晴らしい」かれこれ、これが一番しっくりきた。
2026年幸先のいい1冊。
バッハのVa練習の対象にと選んだのが、無伴奏チェロ組曲ヴィオラ版だ。最初の1番BWV1007ト長調。これを選んだ。
ずっとずっとやりたかった。
この先2番3番へと進むのかは、わからない。
スコットランド生まれのピアニスト、オイゲン・ダルベール(1864-1932)をブラームスは「お抱えピアニスト」といってかわいがっていた。リストの弟子だ。
1896年1月10日。今から130年前の今日、ベルリンで素晴らしい演奏会が開かれた。オイゲン・ダルベールがブラームスのピアノ協奏曲を一晩で2曲演奏したのだ。オケはベルリンフィル、指揮はブラームス本人だ。これがブラームス生前最後の指揮となった。このときブラームス62歳、ダルベール31歳だ。
何と言う組み合わせたろう。チケットはいくらだったのか心配になる。
大それたタイトルだ。実際に存在するかは判らない。
ブラームスの伝記に現れるピアニストで一番の腕前は誰かというお話だ。ブラームスが直接会ったことがあるピアニストが対象だ。ショパン、チェルニー、モーツアルト、ドビュッシー、ラフマニノフあたりは応募資格を持っていない。予選通過は下記の面々である。
誰が一番上手いのだろう。サンサーンスとブゾーニはブラームス作品を弾いたかどうか怪しいので、やや不利か。ブラームスの作品を主たるレパートリーにしていたかとなるとリストも疑問符が付く。
ブラームス本人も相当な腕前らしいが、このメンツの中に入ると旗色が悪そうだ。、けれどもブラームスはそういうことを嘆くキャラではない。
現在のドイツ国旗は「黒赤金」である。ところが1871年普仏戦争勝利によってプロイセンを中心に成立したドイツ帝国の国旗は「黒赤金」ではなく、「黒白赤」の三色旗であった。統一の中心となったプロイセンの国旗「黒白」にライン連邦諸国を象徴する「赤」を混入させたといわれている。バイエルンがへそを曲げるのも無理は無い。ブラームスがその成立を喜んだドイツ帝国は「黒白赤」の三色旗であった。
ところが同時に「黒赤金」もすでに存在していた。1813年対ナポレオン戦争の義勇軍のシンボルに端を発するといわれている。ウィーン体制に抵抗する学生運動を象徴することにもなっていった。「自由と統一」を目指す旗印だった。「保守:黒白赤」「革新:黒赤金」と位置づけられていった。
第一次大戦後のワイマール体制では「黒赤金」を正式に採用することになったが、ヒンデンブルクが台頭すると「黒白赤」を推す層が力を増す。国旗とは別に商船に掲げる旗は「黒白赤」とする妥協も模索された。そして1933年にナチスが政権を掌握すると「鉤十字」が国旗となる。赤に囲まれた白の中に黒い鉤十字というデザインは、どちらかというと「黒白赤」の系統だ。
戦後西ドイツはいち早く「黒赤金」を国旗と定め、東ドイツもほぼこれに準ずる色使いになった。
嬉しくなるくらいレアな指定。「アンダンテやアレグロで弾いてみてね」という意味だ。接続詞「o」の唯一の用例だ。英語の「or」に相当するので「あるいは」くらいの意味だ。
もちろん作品番号付きの作品には現れない。「ピアノのための51の練習曲」の43aに置かれている。練習のためにいろんなテンポで弾いてみてねという意味だ。練習曲だから各々の習得の状況に合わせて、言われなくてもいろいろなテンポで弾くとは思うのだが、敢えて明言しているのは珍しい。
逆にいうと、何故43aにだけ書かれているのかというのが気になる。敢えて書かれるだけの理由があるのだろうか?
アルノルト・シェーンベルクは、著書の中で19世紀後半における論争の主役だったブラームスとワーグナー両方から学んだと回顧する。学んだといっても、実際に師事したわけではない。そんなことが出来た人はいないと申してよい。学んだというのは作品を研究してそのエッセンスを自分の作曲に生かしたということだ。
ところが業界を二分する論争の最中に、その主役2人に師事したというケースがあった。森鴎外だ。彼のミュンヘンでの恩師はマックス・フォン・ペッテンコーファーで、ベルリンでは名高いロベルト・コッホに師事した。この2人は当時ドイツ医学界を二分したコレラ原因論争の主役だ。
コレラ菌が原因とするコッホに対してペッテンコーファーは衛生環境が原因と主張した。ほどなくコッホ説が認められることになるが、都市環境の整備に果たしたペッテンコーファーの功績は大きい。
この2人から相次いで学ぶことが出来たのは大変なことだ。ブラームスとワーグナーから学んだようなものだ。
我が家と言えば、娘たちの実家。何より、まずは相手の実家に付け届け。東武で購入。そこはそれで絶対だ。母の気持ち。
そして、実家の娘たちにも付け届け。ここは、まあまあこんなものだ。
実は実は、娘夫婦には何より「冷蔵庫」がある。はいはいとばかりに娘たち夫婦に冷蔵庫から付け届け。お味噌汁、ばあちゃんのマカロニサラダ。これらは共通だ。あとはフィラデルフィアのチーズ、冷蔵庫ではないがダックワース、かりんとう。
これらは母の気持ちだ。家に来ると心からの招待として帰りにお土産を渡す。むしろ、娘たちとのコミュニケーションだ。初ひ孫と同等の大コミュニケーションである。
これでこれで1昨年以来の大チャンスが成就する。
お年玉が4つ集まった。つまり母が大事にしてきた1月1日の一家大集合の日、そこには1歳5ヶ月の初ひまごがいた。
1日、大騒ぎで準備したが、その中に初ひ孫が居た。大切な初ひ孫をキチンと椅子にかけさせて食べさせた。凄い。母はそこでも実にたくさんの役割をこなした。
母は納豆チャーハンを作った。初ひ孫はまったくもって冷静だ。けろりとばあちゃんの納豆チャーハンを食べてにこにこ顔だ。もっともって来いというお顔。で、これまたみんなが大好きだったキウイを細かく砕いて食べさせた。これもまた絶好調。
あっという間に大人はゲームの時間。従兄弟たちはゲームで夢中だが、ひ孫は私と母がキチンと見守る。ときどき父母の顔を見れば元気で、母と私がちゃんと見ている。ままごとだ。これぜったいに完璧。
孫たちとひ孫、ああ、そしてそして、実は私も。これ実は3代だ。
ついに、正月一家大集合した。長男は仕方なく出社したが、しかし長女一家、次女一家両方が我が家に集まった。母は昨年、年末肺炎に襲われ1年こしで準備した。この度とうとう、とうとう、とうとう全員を我が家に迎えた。11時に次女が、11時35分に長女が集まった。
11時45分。前日から準備した段取りを披露。
お節料理。生揚げ、がんも、たけのこ、こんにゃく、やつがしら、しいたけ、にんじん。これ全て前日に煮た。少しずつ取り分けて大切に盛る。
お餅。食べる分だけ少しずつ。
田作り、生ハム、焼き豚、ローストビーフ、スモークサーモン、これらは12月30日に買いに出た。これらを全部盛り付ける。1皿1皿大切に盛る。
そしてそしてブドウのジュース。みなお酒を飲まないので、乾杯の代わりに赤と白で。最初は白で、後に赤。
芽キャベツ、生トマト、完熟キウイ、かまぼこ、他にもいろいろ。
12時50分。ちゃんと寿司が来る。5人前だ。全員でパクパク。
で、ちゃんとおやつもある。チョコサンド、ハーゲンダッツ、かりんとう。
全員でみんなの正月を祝った。が、しかし。が、しかし。
凄い。これちゃんと90歳の母が準備した。何度も繰り返す。私は単に補助しただけだ。
凄い。
昨日公開した記事「ニューイヤーコンサート」の記事をもう一度公開する。
これらは実はカルロス・クライバーのDVDに入っている。1989年と1992年。どちらも素晴らしい。そのどちらかに入っている。両方にはいっているものもある。カルロス・クライバーは、実は大好きな大好きな指揮者だ。しかししかしなかなかレパートリーが多くない。がしかしそのレパートリーに入ってしまえばもう素晴らしい。ブラームスも2番と4番だけ。
「ジプシー男爵」は凄い。なんと言ってもここに来る。03と08は、定番。14番の「騎士パズマンのチャルダッシュ」は、この中で最高かと。
第一部
第二部
第一部
第二部
指揮はカルロス・クライバー。
我が家にはクライバーの指揮で1989年と1992年がある。そりゃあもうDVDだから本当に美しい。
他の指揮者ではこうはいかない。
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