ここからのワールドカップ
一昨日組み合わせ抽選があった。ここから本番までが楽しい。
日本の出場は以下。
- 1998年 フランス
- 2002年 日韓
- 2006年 ドイツ
- 2010年 南アフリカ
- 2014年 ブラジル
- 2018年 ロシア
- 2022年 カタール
- 2026年 北中米
初出場以降、8回連続の出場だ。これってかなり長い。ブログ「ブラームスの辞書」のゴール2033年まで、あと2回しかない。
どうしよ。
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一昨日組み合わせ抽選があった。ここから本番までが楽しい。
日本の出場は以下。
初出場以降、8回連続の出場だ。これってかなり長い。ブログ「ブラームスの辞書」のゴール2033年まで、あと2回しかない。
どうしよ。
Gottfried Keller(1819-1890)はスイス・チューリヒ生まれの作家。一時スイスの紙幣に描かれていたくらいだから、かの地での評価はかなりのものだと思う。
操った言語はドイツ語だ。リアリズム文学の最高峰と目される。「リアリズムとロマンティシズムの融合」「悲劇とユーモアの結合」などが作風の特長らしい。一見矛盾する事柄が、自然に共存しているというのは、何だかブラームスっぽい。
案の定ブラームスは彼を高く評価した。お友達というには無理があるが、面識はあった。1882年に対面が実現している。けれどもケラーをもってしてもブラームスにオペラを書かせることは出来なかった。
本日7月19日はケラーのお誕生日だ。
シラー作の戯曲のタイトルだ。呪われた王家をめぐる悲劇の物語だそうだ。
内容に感銘を受けたロベルト・シューマンはこれを元にしたオペラの構想を練った。最終的にはオペラ化は断念され序曲だけが作曲された。1851年のことだ。
時は巡って1855年5月7日。ブラームス22歳の誕生日を祝って、ロベルト・シューマンは序曲「メッシーナの花嫁」の自筆譜を献辞付きで贈った。ブラームスがこれに驚喜した手紙が伝えられているらしい。
よくよくその日付を見て欲しい。1855年5月といえば1854年2月27日つまりライン川への投身の後だ。一命を取り留めたシューマンは家族と離れてエンデニヒの病院に収容されていたはずだ。つまりこのプレゼントは収容先の病院からブラームスに贈られたものなのだ。
これがシューマンからブラームスに贈られた最後の誕生祝いである。
ソナタの楽章数を5つにすること。基本は3または4であるが2もときたま。
五楽章制を採用するソナタとしてはベートーヴェンの田園交響曲が有名である。第3楽章スケルツォと嵐の去った後の感謝からなるフィナーレの間に「雷雨」の様子が挿入されてそれが第4楽章と位置付けられている。ソナタ形式の頂点を極めたベートーヴェンは、その晩年において、ソナタの楽章の数を増大させる挙に出た。弦楽四重奏曲の13番14番15番においてその楽章はそれぞれ6,7,5となっている。
さらに名高いのは幻想交響曲だ。これは五楽章ある。そして極めつけマーラーの一連の五楽章制へと続く。
ブラームスのソナタは室内楽24曲、交響曲4曲、協奏曲4曲、ピアノソナタ3曲の35曲を数える。楽章の数は原則として3か4で、唯一の例外がピアノソナタ第3番で、これは五楽章である。この周辺の事情は2005年11月13日の記事「楽章の数」に詳しい。
http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2005/11/post_e350.html
ピアノソナタ第3番ヘ短調op5だけが5つの楽章を持つ。1854年発表で四楽章制のピアノソナタを2曲発表した後に完成した。ブラームスの人生はあと43年続くのだが、五楽章のソナタはこれが最後になった。
ブラームスのピアノソナタ第3番の五楽章制は緩徐楽章が、2つに割れてスケルツォを包み込む形になっている。「回想」と名付けられた第4楽章は、明らかに第2楽章をトレースした旋律から始まっている。古今の五楽章制ソナタを見回してもこのパターンは大変珍しい。この作品を生み出した手ごたえから「ソナタの楽章は3個か4個」と確信したのだろうか。断っておくが、ピアノソナタ第3番はけして失敗作ではない。ピアノソナタ3つの中では、おそらく最もCDの種類が多い。なのにブラームスはこの作品によって、五楽章制を永遠に放棄したばかりか、ピアノソナタというジャンルとも決別している。
ブラームスピアノソナタ第3番の作曲後に、何かを決心したことは間違いない。
生誕200年までに必要な記事を少しでも早く備蓄しきってしまいたいから、いつも記事のネタを探している感じだ。遠くへ出張する際の新幹線の車中というのはありがたい。本を読むことが多く、よくネタを思いつく。帰りの新幹線は眠ってしまうことが多いから、思いつくのは往路だ。
一本でも多く記事を確保したいから、たくさん思いつくのはいいことだが、出張の行きの車中で4本5本と思いつくのは、ストレスになる。帰宅してパソコンに向かうまで、記事に出来ないからだ。ポイントになる単語を携帯電話から、家のパソコンに、メールしておくくらいが関の山だ。出張の間中、悶々としている感じである。
思いつかないよりはう~んとマシだから、嬉しいストレスだ。
「ppp」の話をする。ブラームスが作品に用いた最弱のダイナミクスである。71箇所の用例が存在するが、交響曲には7箇所だ。そのうち4箇所が第4交響曲の中に現れる。律儀なことに各楽章に1つずつ割り当てられている。
「ブラームスの辞書」の中では「ppp」に「響きの底」を手際よく指し示す機能を想定している。全楽章ソナタ形式の第4交響曲にあって、そうした機能を遺憾なく発揮している。
いずれ劣らぬ見せ場になっている。第2楽章以外の出番すべてが展開部になっている。第2楽章が展開部の省略されたソナタ形式であることを考えるとまさにソナタ形式における「響きの底」になっている。
さらにこのうち真正のソナタ形式を採用する第1楽章と第3楽章に注目したい。上記リストではどちらも弦楽器になっているが、実はこの他にも不気味な共通点がある。
この種の恐るべき辻褄がまさにブラームス節の根幹を形成していると考えられる。
ヴィオラのレッスンを始めたのが今年の3月だった。一昨日までに計13回のレッスンに通った。ほぼ2週間に1回60分のレッスン。ちょうどいい頻度と長さ。単にバッハを弾きたいという私の望みが100%尊重されている。
なんと申してもエポックは5月の弓損傷だ。40日後に新弓を購入するにあたって、先生には無理を聞いてもらって選定の場に同席いただいた。
やんちゃな高齢ヴィオラ弾きの無茶にも、いつも笑顔でありがたい。おまけにフィンガリングやボウイングの難所に決定的なアドバイスがもらえる。教則本のスケールが上達しないのはもはや想定内だろう。
ピアノ協奏曲第1番ニ短調op15のライプチヒでの初演が手厳しく叩かれたことは有名だ。1859年1月27日の話である。ブラームスの落胆は激しく、人によってはアガーテとの婚約破棄の原因の一つとさえ指摘している。クララの励ましもあって、その3週間後にはデトモルトでの合唱指導のために鋭い質問をバッハ研究の大家に投げかけたことは既に述べた。1859年2月15日のことだ。
そこからさらに約40日後の1859年3月24日。つまり151年前の今日、ブラームスはライピチヒで落胆を味わった同じ曲を故郷ハンブルグで再演した。ブラームス自身がピアノ独奏を務め、指揮はヨアヒムが担当した。
故郷の反応は暖かく、ブラームスの落胆は一段落したという。
いわば故郷に錦を飾るという演奏会を提案したのは、当日指揮を務めたヨーゼフ・ヨアヒムその人である。批判の大合唱にも「大丈夫です」と静観していたクララといい、復活の演奏会を企てたヨアヒムといい、ブラームスには一騎当千の支持者が居たのだ。
BWV18
工事中
第一交響曲の初演は1876年11月4日(土)カールスルーエで鉄板だ。マッコークルに明記されている。会場はバーデン大公の宮廷劇場で、原文は「Hofteater」となっている。
ところが、先ごろ入手したお宝CDのブックレットに収載されている初演ポスターの写真を見ると会場が微妙に違っている。ポスターでは「Grossen Saale des Museum」と読める。「博物館大ホール」くらいのニュアンスだ。
マッコークルの記事の精度は定評があるのだが、初演ポスターの実写と食い違うとなると穏やかではない。もしこの食い違い論争が、マッコークルの負けあるいは、引き分けつまり「宮廷劇場」が「博物館大ホール」と同一だった場合、重大な地平が開ける。
1887年7月24日森鴎外の「独逸日記」に重要な記述がある。このときカールスルーエで開催された万国赤十字第4回総会に出席した鴎外が、会議のはねた午後7時から演奏会に出かけている。場所は「聚珍会館」とある。原文は「Museumeschaft」なっている。博物館ホールだとするなら、ブラームス第一交響曲初演と同じホールだった可能性が浮上する。
ブラ1初演の11年後鴎外が同じホールで音楽を聴いたということだ。
第一交響曲のフィナーレの話だ。28小節目というより、「Piu Andante」の2小節前と申し上げるべきである。ホルンがアルプスのメロディで大見得を切る2小節前にあたる。第4楽章の序奏がストリンジェンドやクレッシェンドでめまぐるしく煽り立てられた頂点で、ばっさり切って落とされる小節。我らヴィオラはC線の開放弦とそのオクターブ上のCで重音を引き伸ばす。じっと引き伸ばしながら急速なディミヌエンドをかます。忙しくないから少し周りの音を聴くといい。
チェロとバスそれからコントラファゴットだ。ヴィオラと同時に「A音」を伸ばし始めていたのだが、ダイナミクスが十分弱まった中29小節目の3拍目に半音下のAs音に降りる。これがホルンの大見得の2拍前だ。さらにその2拍後つまりPiu andante到達と同時にはまた半音降りてG音に至る。このG音はホルンの大見得を下支えする大地になる。
A→As→Gという打ち続く半音下降は極上である。あくまでもホルンの大見得の準備に過ぎないのだが、全オーケストラのオーラを一身に背負うかのような瞬間だ。この手続きあればこそのホルンでさえある。
あるものを嫌いになると、それに関連する事柄までつられて嫌いになることを意味することわざが「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」である。誰にでもある現象で、人間の心の有り様を良く現していると感じる。
作曲家個人が嫌いだと、その作品まで嫌いという現象は古来枚挙に暇がない。特に作曲家存命中だと、作曲家個人のキャラに触れることが出来るからそういうことが起きやすい。
ブラームスの伝記を読んでいてすぐに思いつくのがハンス・フォン・ビューローだ。クララの父の弟子として台頭した彼は、リストに賞賛されその娘と結婚する。ワーグナーに心酔した彼はその作品の支持者になるが、妻がそのワーグナーの許に走ると一転してブラームス支持者となる。愛妻を取られたのだからワーグナー憎しは自然である。それでワーグナーの作品への共感も冷めてしまったという訳だ。
それからハンスリック。19世紀ドイツ楽壇を2分した論争における反ワーグナーの急先鋒だ。ワーグナー憎しが高じてその周辺の賛同者まで批評の対象にした。ウィーンを本拠にしていたブルックナーが、あまりの攻撃振りに困り果てて皇帝に直訴の一幕もあった。
一方、ロベルト・シューマンの妻クララや、大ヴァイオリニスト・ヨアヒムは、最初から一貫してブラームスの支持者だ。後年不和に陥ることもあったが、ブラームス作品そのものへの評価は一貫している。坊主は坊主で袈裟は袈裟ということだ。
私はというと、ブラームスの没後に生まれたから、ブラームスに直接接した訳ではない。伝え聞く範囲で彼のキャラや作品を知り心酔した。作品の味わいからブラームスのキャラを推定し、そうして完成したブラームス象が作品の聴き方に影響するということを繰り返してきた。坊主と袈裟が限りなく一体に近い。作品に親しむと同時に作曲家のキャラも深く知りたいと願う。
気が付けば、そういう聴き方しか出来なくなっている。
第3交響曲の話だ。第2楽章冒頭はクラリネット2本とファゴット2本に委ねられた牧歌。朴訥な旋律が粛々と進む。交響曲の楽章がこんな地味な編成で立ち上がっていいのだろうかと思うくらいだ。
不思議な現象が一つある。これら4本の楽器のうち1番クラリネットが最高音域の位置にあって旋律を受け持ち、他の3本はこれを包み込むという構造になっている。1番クラリネット担当の旋律は1小節単位のフレージングになっている。つまり小節の切れ目がスラーの切れ目だ。これを包み込む側の3本は、小節の切れ目がスラーの切れ目になっていない。四分音符3つでスラーが途切れ、4拍目から次の小節の3拍目までスラーがかけられている。
目立つという程でもないが不思議な光景だ。第2楽章が進むにつれて次第にタネが明らかになる。伴奏側に現れた「4123」というフレージングが実は曲中の主役なのだ。スラーの切れ目が4拍目直前に置かれるフレージングが主流になるし、C主和音が4拍目に置かれることもしばしばだ。拍節が1拍前にズレることを楽しむ意図さえ感じられるのだ。
楽章冒頭の不思議な光景は、この楽章がそうした拍節のズレを味わう音楽であることの仄めかしであると感じている。拍節のズレを楽しむ作品だからこそ、楽譜通り淡々と変な小細工無く演奏させたいとブラームスは考えていたと思う。
冒頭に敢えて「Semplice」(単純に、淡々と)と記した理由をそのあたりに求めたい。
民謡ラブだったブラームスの関心がドイツ民謡にとどまっていなかったことを端的に示す作品群がある。
「愛の歌」op52と「新愛の歌」op65である。これらは「ピアノ4手に声楽四重唱」という特異な形態を採用しているのみならず、その声のパートが「任意」とされていることが目立つ。さらに全ての曲が事実上のレントラーで書かれている。レントラーはドイツの古い舞曲で、ワルツの原型とされている。
民謡という切り口から注目されるのはそのテキストだ。以下の通りドイツ以外の民謡の独訳版となっている。
<愛の歌op52>
<新・愛の歌op65>
もちろん独訳とはいえマレーシアがあるとは驚きだ。非常に多岐にわたる国々の民謡からテキストを採用しながら、旋律は全てレントラーというこだわりが感じられる。
もう90万アクセスの達成も時間の問題になってきた。自分のブログへのアクセス状況にはとても関心があるし、見ていて面白い。アクセスが増えるのは嬉しい。
一つだけ肝に銘じていることがある。
当たり前のことだが、アクセス解析はアクセスされたことの解析でしかないということだ。アクセスされない場合には解析のしようがないのだ。アクセスさえされれば、多彩多様な分析のツールも揃っているのだが、アクセスされないとどうにも出来ない。たとえば週に1000のアクセスがあるとする。見に来てくれた人たちは何らかのメリットを感じて来てくれている。ところが一度来て、「二度と見るものか」と思った人は来ない。つまりこの「二度と来るものか」と思った人の数が把握出来ないのだ。週間1000アクセスの影には「二度と来るまい」と思っている人が500人いるかもしれないのだ。好きを数えることは容易でも、嫌いを数えることは難しい。
自分のブログのどこがどう嫌われているかは、把握が難しい。短所を補う対策が打ちにくいということだ。
だからアクセス数ネタは、はしゃぎ過ぎに気をつけなければならない。
工事中 1997年7月27日
工事中
工事中
工事中
数種類の選択肢から1つを選ぶ際にしばしば用いれる方法。あかんモンを落として行って最後に残ったものに決めること。長所を決め手とせずに選ぶため消極的なイメージだが、現実にはかなり頻繁に用いられている。
中期以降に出現するピアノ小品群は、数曲の作品が一つの作品番号にまとめて出版されるのが常だった。インテルメッツォとカプリチオを仲良く4曲ずつ盛り込んで作品76として出版する際、その集合体に適当な名前がないものかとジムロックに相談を持ちかけている。ブラームス本人はそれらを「Klavierstucke」(uはウムラウト)と呼んでいた。
結局ジムロックも気の利いた名前を思いつくことが出来ずに、「Klavierstucke」の名前で出版された。いわば消去法である。このタイトルはop76にとどまらずop118とop119でも再び用いられる。
盛り込まれている曲は、ブラームスのピアノ作品の精髄のような作品だが、それらの集合体に割り当てられるタイトルには無頓着だったと考えられる。
聴き手の感じ方に必要以上に介入しない姿勢の裏返しとも感じれられる無味無臭のタイトルは、作品の内容で勝負するブラームスの思いが込められている。
小説で、映画で、テレビドラマで、あるいはCMでその場の情景をより印象的に伝えるために、ブラームスが用いられることがある。あるときにはブラームスの作品だったり、あるときには「ブラームス」という言葉だったりする。作家、監督、ディレクター、広告代理店の何らかの判断により、一定の効果を狙ってそこに置かれるという訳だ。
映画であれ、テレビであれ、一定のシーンのバックにブラームスの作品を鳴らしてその場の雰囲気作りに貢献させようという試みは古来から頻発している。「さよならをもう一度」「恋人たち」が代表的だ。聴き手がそこで流される音楽の作者を「ブラームス」と言い当てられなくても、効果は期待出来る。作者は誰であれ、その旋律が効果的だという、監督なり、ディレクターなりの判断がそこには存在している。場合によっては、旋律の流れこそが狙いであることもあり得る。「情景にピッタリの音楽を選んだらそれが、たまたまブラームスだった」というケースだ。
ところがこれが、小説での出番となると状況が変わる。音楽が実際に流れる訳ではないからだ。作家は自らの思いを描ききる小道具としてブラームスの名前を登場させるのだ。フランスの某女流作家に「ブラームスはお好き?」という作品がある。数多ある作曲家を差しおいて彼女は何故「ブラームス」を選んだのだろう。彼女の云う「ブラームス」は、1833年ハンブルグ生まれで1897年ウイーンにて没した私の愛するあのヨハネス・ブラームスのことであると決め付けていいのだろうか?
何故「モーツアルトはお好き?」でも「ショパンはお好き?」でも「ドビュッシーはお好き?」でもなく「ブラームスはお好き?」なのだろう。聞くところによればその「ブラームスはお好き?」には実際にブラームスが出てくる場面は少ないという。なのに作品のタイトルに「ブラームス」の名を躍らせた彼女の意図は何だったのだろうか?
世間に流布定着するブラームスのイメージを利用したのだろうか?だとすればその当時フランスにはどのようなイメージが流布していたのだろうか?
異国の小説とはいえ「ブラームスはお好き?」というタイトルは私個人にとっては、真ん中過ぎる。かわしようも、ごまかしようもない。小道具としては濃過ぎる。
ローレンツ・クリストフ・ミツラーが1738年に創設した団体。作曲家を含む音楽家同志の情報交換を目的とした団体。定員20名らしい。1747年入会のバッハは14番目の会員。世話人だったミツラーの見立てで会員を招待していた。
先にテレマンやヘンデルが入会している。つまりバッハの入会優先順位はこれら二人より低いとも解し得る。単に「会員番号14」にこだわっただけということもある。
バッハは入会規定に従って、作品を提出している。「高き御空より我は来たりによるカノン風変奏曲」BWV769だ。これがもう、「フーガの技法」や「ゴールドベルク変奏曲」にも匹敵する力作だ。演奏の難易度においてバッハオルガン作品最高峰に押す向きも多い。作曲技法てんこ盛りなのに実際に聴いてみると単に美しいというよくあるパターンだ。
となると、テレマンやヘンデルが入会に際して、提出した作品を聴いてみたい。
8分の6という拍子がある。1小節の中に8分音符が6個だが、3個が二組と考えることが必須である。指揮をするときは1小節を2拍と取り扱う。いわゆる「2つ振り」だ。
以上のことを前提にブラームスの第一交響曲の第1楽章の主部「Allegro」のことを考える。人にもよるがこの部分2つ振りされる。1つの拍には8分音符を3個を感じねばならない。4分の2拍子にしておいて三連符を延々と羅列しても事情は似てくると思うが、断固区別せねばならない。おかげでこの第1楽章は交響曲伝統の「Allegro」を背負っていながら、スカーッと流れる楽想にはなっていない。「pesante」やシンコペーションの多用もそれに拍車をかける。
ところがブラームスは要所において、満を持して拍を2つに割るという挙に出る。340小節目のチェロ・バス・ヴィオラと、492小節のチェロだ。8分音符が3つ並ぶ1拍を2で割るということだ。小学生でも解る通り、「割り切れない」のだ。
1回目は294小節から始まった再現部への歩みがまさに頂点に到達する瞬間、他のパートに逆らって低弦が拍を2で割る。再現部はもう4小節後に迫っている。咳き込んで再現部になだれ込むのを今一度押しとどめる効果がある。この次の小節では「ドッペルドミナント」という瞬間まで用意されて再現部の到来に万全を期す方策の一つになっている。
2回目は474小節で頂点に達した音楽が冷めてゆく過程の中で起きる。その間ギャロップのリズムを刻んできたチェロが、静かに足を止める手順を形成している。事実上の「オートマチックリタルダンド」だと解し得る。3小節後に迫った「Meno Allegro」を自然に導くための準備である。
3を2で割るリズム的な半端感を用いて段落の切れ目を巧みにマーキングしているように感じる。しかも2回ともチェロが主役である。
お相撲の話を聞いたことがある。髷をきつく結い、まわしをきつく締める。体の両端2箇所をきつく締めることで体がキリリと引き締まり、信じられない力が出るのだという。
3を2で割るクリップが再現部の直前と「Meno Allegro」の直前計2箇所に置かれることで、第一楽章がキリリと締まっているような気がする。いわば髷とまわしだ。 お相撲のルールでは、髷はともかく、まわしがはずれたら負けである。
7月28日からブログ「ブラームスの辞書」は、事実上「民謡特集」を展開してきた。ブラームスが「Volkslied」に深い愛情を注いでいたことから、ドイツ民謡への知識を掘り下げたいと欲して、記事を連ねてきた。ドイツ文化の中の、ドイツ民謡を背景に据えてブラームスの民謡ラブを再点検したいと考えた。
その過程で少なからざる情報が入手出来たが、恥ずかしいことも起きた。ドイツ民謡についての知識を得ても、日本民謡と比較が出来ないことだ。50年以上日本人として日本語を使っているのに、日本民謡への知識は中学高校時代の音楽の授業の域を出ていない。
19世紀後半にドイツ人たちが民謡に注いだ愛情の濃さに比べ恥ずかしいばかりだ。私に日本民謡の知識があれば、それとドイツ民謡を比較するという角度から、少なくない本数の記事が書けるに決まっている。
「ネーニエ」は「Nanie」(aはウムラウト)と綴る。ブラームスのop82が名高い。友人の死を悼んで作曲されたものだ。テキストはシラーである。「Nanie」をドイツ語の辞書で引くと「ローマ風の挽歌」とある。れっきとした普通名詞だ。
実は先般買い求めて驚喜している「シューマン合唱曲全集」全4枚組の4枚目に「Nanie」がある。「女声三部合唱のための3つの歌」の1番だ。テキストはLudwig Bechsteinという人。バラと小鳥に囲まれた弔いの描写のように見える。
演奏時間2分にも満たない小品ながら心地よい。
音楽之社刊行の「ブラームス回想録集」第1巻111ページ。ブラームスがリューゲン島で過ごした1876年夏の様子が友人のヘンシェルによって語られている。その中1876年7月15日の記述が興味深い。
ブラームスとヘンシェルの2人はリューゲン島のホテルでシャンパンを開けたとされている。その名目が「普仏戦争開戦6周年記念」だということになっている。たしかに普仏戦争の宣戦布告は1870年7月15日だったから、ちょうど6年目だ。2人は愛国的な話題でたいそう盛り上がったらしい。
ブラームスは当時を思い出して、「とりあえず女所帯だったクララのところに駆けつけよう」と思ったと回想する。開戦後プロイセンの旗色が悪かった時期、真剣に志願しようとしたとも言っている。形勢が逆転してくれて助かったと結ぶ。ヨーロッパ史的には、普仏戦争はプロイセンの圧勝だったのだが、個別の会戦では勝ったり負けたりだったということが裏付けられる。
プロイセン国内の報道では、負け戦も伝えられていてブラームスが心を痛めていたと判る。
2006年に刊行された「クラシックCD異稿・編曲の楽しみ」という本がある。有名作曲家9名を対象に、作品の異稿や本人または他者による別編成への編曲物のCDを紹介する内容。その中の第7章がブラームスのために割かれている。
いやはや興味深い。もう5年前の本だから、ここに載っていないCDを私が持っている場合もあるが、目から鱗のCDがザクザクと紹介されていて、身体に毒だ。本日は同書に紹介されているもののうち、私が所有していないものを列挙しようと思う。所有しているCDをネタにブログ記事が書かれるというケースは割とみかけるが、持っていないCDをネタにするのは少数派だろう。
ため息ばかりだ。同書に紹介されているCD、持っているものが意外と多くて驚いた。上記の中には今となっては入手困難なディスクもあるから、気長に探そうと思う。
CDの作品解説が載っているブックレットには、しばしば貴重な情報が書かれている。昨日の記事「初期型2楽章」で買い求めたCDもお宝ブックレットだった。日本語は無し、独仏英の三ヶ国語なのだが、そこにブラ1初演のポスターの写真が掲載されていた。プログラムが全てわかる。第一交響曲の前に某歌手によって「五月の夜」op43-2が歌われていた。現代ではありえぬ取り合わせだ。
もっとサプライズがあった。各楽章が以下の通り表現されている。
唖然とはこのことだ。これを現行の楽章と比較する。
全楽章が現行とは違っていた。何だかとても繊細。ブラームスがこういう言葉尻にこだわっていたことが良くわかる。
欲しくて欲しくて仕方ない物に対して「喉から手が出るほど」と形容されることがある。
毎度毎度のブリリアント社さんの仕業が悩ましい。ブラームスの独唱曲二重唱曲全集が出ている。12枚組で6000円ほど。収録されている曲は既に殆ど持っている曲ばかりなのだが、12枚のディスクのうち1枚が超お宝だった。「28のドイツ民謡」WoO32が収められているのだ。これは未入手だ。「49のドイツ民謡集」WoO33はCDの種類も豊富だが、こちらはなかなかみかけない。この28曲欲しさに6000円の出費は、いかにも痛い。思い切って購入した後にのこのこバラ売りでもされたらと思うと、手が出ない。
耳から手が出そうだ。
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