ブラームスが晩年に知り合ったクラリネット奏者。彼の名人芸のことはブラームスの関連本には大抵載っている。
弦楽五重奏曲第二番を1890年に書き上げたブラームスは、創作力の減退を自覚し、大作の作曲から手を引き、作品の改訂や整理に打ち込む決心をした。ところが、ミュールフェルトと出会ったことがキッカケでまた、創作意欲がよみがえり、最晩年の一連の室内楽が完成したと大抵の本に書いてある。
ミュールフェルトの影響で書かれた最初の曲はopus114のクラリネット三重奏曲、続いてクラリネット五重奏曲がop115で続く。最後に2つのソナタが120という番号をしょっている。
111の弦楽五重奏と114のクラリネット三重奏曲の間に挟まれた112と113は、なるほど過去の作品の整理という色彩が強く、伝記の記述と一致している。ことの性質上作品番号には反映しにくいとは確かだろうが、2曲とは拍子抜けである。さらに私が問題にしたいのは、クラリネット五重奏曲とクラリネットソナタに挟まれた116から119までのピアノ小品たちである。
世界遺産にも登録されるべき珠玉の小品たちは、ミュールフェルトとの出会いがなければ生まれなかったのだろうか?ミュールフェルトとの出会いで創作力が刺激された結果生まれたのだろうか?世の中の書物は、この点にあまり言及していない。
私個人は、これらのピアノ小品はミュールフェルトとの出会いがきっかけで生まれたのではないと考えている。ミュールフェルトとの出会いがなくても書かれていたと解したい。
伝記はとかく大袈裟だ。創作力が枯渇したので作品の整理に没頭したといいながらその実態は、作品数にして2つだけである。おそらくブラームス特有の言い回しをマジに受け止めすぎた結果だと思われる。ミュールフェルトの霊感が作用したのはクラリネット絡みの4曲だけだ。この周辺のミュールフェルトのエピソードはかなりしつこく言及されているのに、晩年のピアノ小品との因果関係には触れられていないのは研究者の怠慢だとまで思っていた。「外国の本にはこうかいてある」「外国の学者はこういっている」という伝記作者(=単なる翻訳者)が意外と多いような気がする。
結論として、あの小品がミュールフェルトと関係ないなら、五重奏の後、霊感が枯渇しただの整理に没頭する決心をしただのをあまり強調すべきではない。
最近のコメント