昨夜「今年の迎え火そろそろだね」と母と話していたら、玄関で物音。ブラームスが立っている。「迎え火もまだなのに」と言いかけた私を押しのけて、次女に向かって突進し、いきなり抱きしめた。ドン引き気味に立ちすくむ次女にお構いなしに頭を乱暴に掻きなでる。
昨年のお盆は、地震と商売の話ばかりだったので、次女が高校オケにはいった話をし損ねた。その次女は今年、オケの話をしたくて楽しみにしていたことは間違いないのだが、迎え火前の登場には意表をつかれた。
5分は続いた手荒いハグのセレモニーの後、呆然とする次女にしみじみと話しかけた。「凄かったね、ニュルンベルクのコンサート」と切り出した。「おいでいただいたのですか」と次女。「もちろんだとも」「デュッセルドルフも聴いてたよ」とブラームス。「デュッセルドルフの聖ヨハネ教会は懐かしかったけど、演奏を聴いて驚いた」「だからとニュルンベルクにはなかなか出かけないのだが、大震災に遭った日本から乙女たちのオケが来ると知り合いをみな誘ったんだ」
話がいきなり盛り上がったせいでゲストを忘れていた。後ろでモジモジしていた男をブラームスが紹介してくれた。ブラームスの親友ハンス・フォン・ビューローだ。「ニュルンベルクのコンサートで、こいつがあんまり感激したモンだから連れてきた」とブラームス。次女が握手をしながら「指揮もなさるのですか」と話しかけるとブラームスは腹を抱えて笑った。「ジョークのセンスもたいしたもんだ」とブラームスは誉めてくれたが、次女は何故笑われたかわかっていない。「すんません。後でよく説明しておきます」と平謝りの私。
ところが当のビューローはにこりとも笑わずに「無闇に年齢を訊くのは日本でも失礼なのか?」と私に尋ねてきた。「もちろんですが」と答えたにもかかわらず「ニュルンベルクのコンサートの生徒たちはいったい何歳なのですか」と畳み掛けてきた。次女が「16歳か17歳です」と答えると、ブラームスの方に向き直って両手を広げて首をすくめる動作。次女に向き直ると「大震災の日本から元気をもらったよ」とビューロー。「ありがとうございます」と次女が緊張気味に答える。「私はセカンドヴァイオリンでした」というと今度はブラームスが「ああ、よく見えたよ」と割り込む。
「演奏の出来はいかがでしたか」と度胸のついた次女が尋ねる。ブラームスとビューローは一瞬顔を見合わせて、ほぼ同時に「ブッルァ~ヴォ」とつぶやいた。やけに巻き舌を強調する言い方だった。「みんな立ち上がっていただろ」とブラームス。次女は「その様子が凄くて本当に感動しました」とポツリ。「ビューローも私ももちろん立ち上がったよ」ビューローは「演奏の水準もだが、スプリンクラーのあり得ない誤作動から、気迫が演奏に乗りうつっていたね」「尋常ならざる雰囲気の中、集中を切らさなかったのはたいしたものだ」「だから思わず年齢を聞いたんだ」とまくし立てる。
「スプリンクラーの誤作動のとき、みんなどう感じていたの?」とブラームス。「演奏会が続けられるかとても不安でした。正直なところ足がすくんでいました」と神妙な次女。「世界中どこのオケだってスプリンクラーの誤作動なんぞ想定していない」とビューロー。「きょろきょろしないで、指揮者だけを見ているよう心がけました」と珍しく雄弁な次女の対応。「全く想定外のトラブルに対し、微動だにしない様子だけでも一見の価値がある」とブラームスがビューローを押しのけるように割り込む。「ありがとうございます。でも聴衆のみなさんの暖かい応援のおかげです」
総立ちのスタンディングオベージョンでさえ滅多に起きることではない上に、それを浴びた少女たちはただ涙。涙する乙女たちと、総立ちの聴衆がじっと向かい合ったままの夢のような数十秒間。スプリンクラーのことなんぞみんな忘れていたよと、ビューローは興奮が収まらない様子。
長いドイツの伝統で、聴衆には「感動したら立つ」というルーチンが出来上がっている。演奏家に対する最上の敬意。これがスタンディングオベージョンなのだが、あの日はもどかしかった。総立ちのスタンディングオベージョンを浴びてステージで涙する少女たちに、それ以上の敬意を示す手段が無かったからだ。あの演奏会がチャリティだったのが幸いだった。これはブラームスの熱弁。はっきり言わないがブラームスも募金に応じたようだ。それもかなりの額。
「凄い練習量なのだろう?」とビューロー。「部活全体には初心者も多いので大変でした」と次女が答えると、2人とも「はぁあ?」という表情。楽器を始めて1年のメンバーが少なからず混じっているという説明にビューローはおよそ10cmのけぞった。ブラームスがビューローを押しのけながら「そもそも部活ってなんだ?」ともっともな質問。次女は丁寧に答えるのだが二人とも全く飲み込めていない様子。
当日の録音は無いのかという話になったところで長女がビールを持って入ってきた。
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