5杯目を飲み干してブラームスさんが「ところで源実朝って誰じゃ?」と聞いてきた。鴎外先生が「いかんいかんまだ説明出来とらん」と頭を掻く。「あなたを生涯の作曲家と決めて40年、このほどようやく生涯の歌人を決めました」「それが源実朝です」と即答する私。
「いやいや実朝某を私になぞらえているのでな」とブラームスさんが身を乗り出す。歌人と作曲家を紐付けた試みのことだ。
「日本の有名歌人たちの位置づけを急ぎ飲み込むにはうってつけの資料だな」とブラームス先生。「ブラームス先生が遅れてきたロマン派である点やバッハ先生への傾倒、シューマン先生との関係、ワーグナー先生の位置づけ、もろもろ全て熟考の成果です」と私がどや顔気味にまくしたてる。「ブルックナー先生やリスト先生にあてていたら、その歌人の位置づけはすぐにばれますよね」と付けくわえた。
「シューマン夫人やマーラー夫人がいないのが残念だ」とブラームスさん。「いやいやそうは申しても」と鴎外先生が割って入る。「女流歌人の位置づけは女流作曲家の位置づけよりも格段に高いんじゃよ」と。「そういえばわしが曲をつけた詩人は男性ばかりだった」とブラームスさんが感心しきりだ。
私が次女に合図を送った。次女がいそいそと二人に包みを差し出す。「開けてください」と私。
「令和百人一首書籍版をマスクのお礼に差し上げます」と次女が高らかに言い放つ。「表紙は源実朝なんですよ」と付け加えた。
ぴったりサイズの特製ケース入りだ。パラパラとめくっていた鴎外先生が奥書きを見て驚いた。「10部印刷なのか?」と。「製版代もばかにならんじゃろ」と出版事情にも詳しいブラームスさんが割って入る。「まあオンディマンド印刷ですわ」と私。限定10部の1番を鴎外先生に用意しましたと。「わしのは7番になっとるわい」とブラームスさん。「一応お誕生日に合わせました」と控えめなどや顔の私。
乾杯のジョッキをあっという間に飲み干したブラームスさんが待ちかねたように口を開く。「道中音楽の話が全く出なかった」「興味深い日本のポエムの話ですっかり盛り上がった」鴎外先生も遅れて飲み干して加わる。「私の作品を選んでくれてありがとう」どうやら「令和百人一首」のことを言っているらしい。「31音の短詩とは優雅なことだ」「賛美歌にも同一の音節構造を持つテキストに旋律を共有させる仕組みがあるけれど日本のは繊細だな」とブラームスさんが得意げに話す。「和歌を選んで配置することも十分に芸術ですね」と鴎外先生がポツリとつぶやいた。「道中2人で全百首を味わってきたよ」というとブラームスさんが「いやはや楽しい」と満足気だ。
「それにしても和歌の伝統とはさすがだな」とブラームスさんが溜息をつく。「少なく見積もって1200年も同一の詩型が維持されているとは」どうも道中の鴎外先生の講義はそうとうな細部にまで及んでいたようだ。
鴎外先生はやっと「選んでいて楽しかったろう」と少し話題を変えた。「はい」と私。「時代順の配列」「日本史と和歌史のバランス」「本歌取りの優先的採用」と続けても鴎外さんはうなづくばかり。「加えて和歌へのリスペクト」とブラームスさんと鴎外さんが同時に口走ったのには驚いた。驚いてばかりもいられないので「同時に古典へのリスペクト」と私が切り返すとブラームスさんは立ち上がって私をハグしてくれた。鴎外先生は笑いながら「ディスタンス、ディスタンス」と言っている。
「ブラームス先生を筆頭とする欧州の古典音楽の作曲家たちの話題なら一晩中語っていられるのだから、自分の国の歌人についてそれが出来ないのは文化的に恥ずかしい」というと鴎外先生は小さくガッツポーズを作ってくれた。「古今の優秀な作品に数多く触れてそれについて語れることは生涯の宝になる」「これらを出来るだけ暗記しておいて、ふさわしい場面で思い出せることが人生を豊かにする」などと巨匠二人の前で調子に乗ってしまった。
「古典古典古典じゃな」と鴎外先生がポツリとつぶやく。「古典を知り尽くした上でないと乗り越えることも出来ん」「壊すべき古典のない無手勝流では、やがて廃れる」と堰を切ったようだ。「陸軍用語の前衛、フランス語でいうアヴァンギャルドは、芸術用語としては危うい」「軍隊用語なら奇襲を受けぬよう本体に先行する小隊の意味で、本隊は必ず前衛の後を追うものだが、芸術は単なる異端との境目が曖昧だ。用心せねばな」と陸軍ネタにはやけに明るい鴎外先生だ。「だからじゃ」とブラームス先生が割り込む。「わしがドイツバロックにのめり込むのも同じ理屈だよ」「未来の音楽には興味はなくて、ただ未来に残る音楽を書きたいと思ったら歴史を顧慮せざるを得ぬ」「わしなんぞはけして筆頭ではないんだよ」
いやいやさすがに今年は来ないかと思ったら、悠然とやってきた。二人連れだ。二人ともマスクをしている。ブラームスさんが「俺は煩わしいから、いやだと言ったんだが、連れが厳しくてな」と後方の紳士を紹介してくれた。「ベルリンの森です」といって手を差し出してきた紳士は、森鴎外先生だ。道理でマスクにうるさいわけだ。「何しろ軍医殿だからな」とブラームスさんは神妙にしている。母が消毒用アルコールを二人に差し出した。ブラームスさんは「感染症と言えばコレラだな」と訳知り顔だ。1848年にパンデミックがハンブルクを襲ったことを指しているようだ。「20世紀に入ってからはスペイン風邪などもあった」と鴎外先生が付け加えた。
「そんなところで立ってないでこっちで喉の消毒をしよう」と私が招き入れた。鴎外先生はドイツ語堪能なので道中話が弾んだようで、ブラームスさんが感染症にもやけに詳しくなっている。「あんたの家族は大丈夫か」と心配顔だ。「なんとか」と答えると頷きながら「土産だ」と言って紙包みを差し出す。次女がそそくさと開けると中身はマスクだった。「天国は密なのだが誰もしていなくてな」と。「全部布製手作りだから」とやけにどや顔だ。家族全員の分が揃っていると母が涙目でお礼を言っている。娘たちは「マスクかわいい」といって盛り上がっている。食事などのために一瞬はずしたマスクをおしゃれに収納できるケースには感心しきりだ。なんでもマスクに直接触れずに脱着が可能だとか。
さあさあ「うがいうがい」と長男がビールを持って入ってきた。ブラームスさんは「ご家族お揃いか」と嬉しそうだ。私が「いやいやこれこそが在宅ですよ」と説明すると鴎外先生が感心しながらブラームスさんに説明している。さてとばかりに鴎外先生とブラームスさんがマスクをはずすと長女が笑った。「お二人とも立派な髭なので」と珍しそうだ。
「ホッホコローナ」とブラームス先生がジョッキを手に立ちあがった。「御一同起立」を意味する学士会用語だ。勢いにつられて母まで立ち上がった。鴎外先生の「プロジット」の声が高らかに鳴り響いた。
ブラームスの伝記ではおなじみの人物。マイニンゲン公として登場することが多い。正確にはザクセン-マイニンゲン公だ。彼の宮廷の楽団にハンス・フォン・ビューローを招聘し、その実力が急速に高まった。ビューローを介してブラームスとも交流があった。出世前のブラームスがヨアヒムの紹介で御前演奏したゲオルク5世は、ハノーファー王なので紛らわしいがもちろん別人。
この人1866年普墺戦争で、オーストリアに加担したために退位に追い込まれた父の後をついで即位した。チャキチャキの親プロイセンというより、プロイセン王、後のドイツ皇帝ウィルヘルム1世のお友達だ。普仏戦争での勲功厚い武闘派なのだが、ドイツ帝国成立後は芸術に傾倒する。その過程でビューローやブラームスとも親しくなったという仕組みだ。
1886年1月13日。森鴎外の「独逸日記」にドレスデン・ザクセン王宮での舞踏会の様子が描かれる。鴎外が律儀に出席者を列挙する中に、ザクセン・マイニンゲン公子ベルンハルトがいる。ゲオルク2世の長男で、後のベルンハルト3世だ。
森鴎外の「独逸日記」は1884年から1888年にドイツ留学時の記録。超一流の文豪が残したドイツの風物の描写。本日はその中に登場するホテルを抜き出して列挙する。どこか1箇所くらいブラームスも泊まったかもしれないと妄想が膨らむ。
<ベルリン>
<ライプチヒ>
<ドレスデン>
<ネルハウ>Nerchau ザクセン陸軍の演習に臨む。
<グリンマ>Grimma ザクセン陸軍の演習に臨む。
<ミュンヘン>
<シュタルンベルク湖>
<レオニー>シュタルンベルク湖畔
<ヴュルツブルク>
<カールスルーエ>
<ウィーン>
ご覧の通り漢堡ハンブルクが無い。よくよく調べると4年の留学期間中に鴎外はハンブルクに立ち寄っていない。またライプチヒに「ホテルドレスデン」がある。誤植ではない。
本日のこの記事はブログ「ブラームスの辞書」開設以来4000本目の記事となる。
19世紀後半のドイツでどれほどカフェが繁盛していたかの一端を示すために、森鴎外の「独逸日記」に出現するカフェを一覧にしておく。「骨喜」は「コーヒー」のことだ。
日本初のカフェは1886年頃開業したらしいので、渡独中の鴎外は知る由もない。その代わりドイツでカフェに開眼したこと上記の通りである。困ったときの一覧ネタでもある。
鴎外の誕生日は2月17日だ。実はこのたびのコーヒー特集は、その前に終わってしまうから、本日の記事を誕生祝いに出来ない。2月17日は旧暦で申せば1月19日なので、苦し紛れに本日の公開とした。
森鴎外の「独逸日記」にしばしば現れるベルリンのカフェ。
1877年10月14日ベルリンはウンター・デン・リンデン26番地に開業。目抜き通りの一等地に堂々開業したこのカフェは、コーヒーショップを思い起こしてはいけない。華麗な内装、桟敷席、高い天井と広いサロン、有名画家による壁画。コーヒー1杯で好きなだけくつろげるウィーン風のカフェという触れ込みだった。開業後瞬く間にベルリン名所になった。
ビリヤード台のほかに、新聞雑誌が600種おかれ、3人の司書がこれを管理していたという情報ステーションでもあった。東京日日新聞も置かれていたらしい。
だから、ブラームスもきっと一度は立ち寄っていたと思う。
1886年9月7日および8日、ミュンヘンに居を構えていた森鴎外はシュタルンベルク湖畔レオニー郊外にあるロトマンの丘を続けざまに訪問した。レオニーに投宿しながらロトマンの丘に日帰りをした。
ロトマンの丘は、レオニーの南およそ1kmの景勝地で、頂上からは西側にシュタルンベルク湖を望むことが出来る。先般入手した「ドイツ鉄道地図」を見て驚いた。レオニーからロトマンの丘にケーブルカーがあったらしい。現代は廃止扱いなのだが、線路が残っているというアイコンが記されている。総延長880mで標高差91mと細かなデータも添えられている。1897年開業で1919年には廃止されてしまった。
鴎外の独逸日記には、徒歩でロトマンの丘に登ったと明記されている。開業前に訪れたのだから当たり前。
好奇心旺盛な鴎外だから、見るなり乗るなりしていれば独逸日記に必ずその痕跡を残したと思うので残念。
森鴎外「独逸日記」にも駅コンが出現する。1885年6月10日場所はライプチヒだ。鴎外は友人と連れ立って拝焉停車場で合奏会を聴いたとある。拝焉停車場は「Bayerischebahnhof」で、ライプチヒのバイエルン方面駅のことだ。8月22日には寒さで拝焉停車場の演奏会が中止になったとも記されている。何にしろ、駅構内でのコンサートに違いない。
8月22日に寒さで中止になるとは日本の実感とは合わない。クラカタウの噴火と関係がありはしないかと勘繰る。
次女たちオケの伝統で、3年生引退後新たなメンバーで最初に臨むのが駅コンだ。駅前広場のスペースで初めての演奏会に挑む。今年は6月14日土曜日の14時と15時の2回公演だ。
何はともあれ、気がかりは天気。関係者全員の念を集中して、梅雨に対抗したい。
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