積ん読
「つんどく」と読む。入手した本が読まれない状態のことを表す俗語。1冊や2冊では用いられない気もする。1度読んだだけで放ったらかしという状態も、含まれるかどうかは議論の余地がある。書籍本来の目的は、申すまでもなく読まれることだ。だから「読まれない」ということは本来の目的からの決定的な逸脱だ。この点への自戒と自嘲というニュアンスが濃厚に含まれることも少なくない。
実は同様の現象がCDについても起きる。1度聴いただけで放置という状態まで定義を緩めれば、誰にも経験があるだろう。
「ブラームスの辞書」だって、どこかで「積ん読」されているに決まっている。しかし辞書は、調べ物が発生する度に手に取られる確率が高いと思う。
前置きはそこまでにする。
本の本来の目的が「読まれること」であるなら、「楽譜の本来の目的」はどう定義されるのだろう。「弾かれること」「歌われること」なのだろうか。どうもこれが一筋縄ではいかない気がする。もしも「弾かれること」「歌われること」が本来の目的だとするなら、我が家の楽譜は皆「積ん読」状態にある。「弾きもしない」「弾けもしない」あるいは「歌いもしない」「歌えもしない」のに我が家にはかなりな量の楽譜がある。
演奏にあたり作曲家と演奏家の間を取り持つ唯一の架け橋であることこそ、楽譜の最重要目的だが、それだけでは説明のつかぬ巨大な側面が楽譜には存在すると確信している。
我が家の楽譜は「積ん読」ではないと思う。
最近のコメント