寿福寺
鎌倉五山の一つ。
1971年8月5日、今は亡き父に連れられて小学校6年の私は、鎌倉を訪問した。夏休みの自由研究の取材旅行でもあった日帰りハイキングの主目的が鶴ケ丘八幡宮と寿福寺だった。そう父は私に歴史の名場面を語るのを楽しみにしていた。実朝暗殺の舞台とその墓所が、旅のメインになるのは必然でさえあった。
北条政子と実朝の母子が眠るという場所、あまりのオーラに暑さを忘れて立ち尽くした。昨日のことのようだ。
が、しかしそこに埋葬されているのは実朝の胴体だけだとあとで知った。
実朝を討った公暁は首をはねていた。暗殺に成功した証とするためである。それを「やりました」とばかり持ち込んだ先で。あるいは持ち込む途中で殺されたという。「やりました」は「言われた通りやりましたのでほめてください」の意味だろう。持ち込んだ先の人から唆されていた。確かにそれは北条氏ではないし、鎌倉幕府の正史たる吾妻鏡も沈黙している。そりゃ「北条氏が唆して」とは筆を滑らすはずもない。「甥が叔父を討った」つまり「源氏内部の内輪揉め」である方が好都合に決まっている。
人の口に戸は立てられないのは何もネット社会だからではないのだ。庶民は薄々というパターンだ。
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