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カテゴリー「550 楽友協会」の9件の記事

2022年1月28日 (金)

影のMVP

記事「MOW」で話題にしたウィーン楽友協会のブラームスコレクションの中に、いぶし銀の光を放つ遺品群がある。

ブラームスが作曲の際に使用したスケッチだ。楽想を練り上げて行く際に書き留めたメモという位置づけ。

ブラームスは他の作曲家について、作品の成立過程をうかがい知るためにスケッチを収集してたのは周知の通りだ。出版された楽譜や自筆スコアからでは判らない作曲の過程いわば作曲工房を覗き見ることができるからだ。

ところが、ブラームス自身は自作についての作曲工房を見られることを極端に嫌った。水準に達しない作品は容赦なく破棄したし、スケッチの扱いも一貫していた。現代ならシュレッダーを愛用していたに違いない。ブラームスコレクションに残されたスケッチは、ブラームスがウィーンの自室でゴミ箱に廃棄したものだ。これをゴミとして処理せずに拾い上げ素知らぬ顔で保管した人物がいたのだ。

セレスティーネ・トゥルクサ

ブラームス最後の10年を家政婦として支えた人物だ。ブラームスの信頼は絶大だ。ブラームスの死後長く生きていたのに、ブラームスについては沈黙を貫いた。手記の1つも書けば、まとまったお金になったに違いないのだが、ブラームスの信頼にこたえる方を選んだ。

自分が世話をする人物がただならぬ大物という自覚はあった。音楽に精通していなくても、身近に暮らす中から嗅ぎ取った直感だろう。でなければ彼女がブラームス自室のゴミ箱に打ち捨てられたスケッチを拾い上げるはずがない。おそらく厳密にはブラームスの信頼を裏切る行為だろうが、後世の愛好家研究者にとっては創造主、女神にも見える。シュレッダーがなかったことを心から喜びたい。

きっとブラームスも今頃笑っているだろう。

2022年1月27日 (木)

MOW

「Memory of World」の略。ユネスコ記憶遺産のことだ。歴史的に意義のある文書を、最新のデジタル技術を駆使して保存して行こうという試みで1995年にスタートした。世界遺産に比べると知名度は低いかもしれない。

登録数最多はドイツの13点で、オーストリアが12点でそれに続くのだが、その12点の中に、ウィーン楽友協会が所蔵するブラームスコレクションなる一群があった。2005年に登録されている。

1897年ブラームスが没したとき、その遺産遺品は遺言により、ほぼウィーン楽友協会に寄贈された。1812年の設立以来「音楽に関するあらゆる史料資料を網羅する」ことを基本方針としてきた同協会はこれを拝受し保存に努めた。歴代の資料館長が綿々と受け継いできた伝統だ。館長の中には、フェルディナンド・ポールやオイゼビウス・マンディチェフスキなど、ブラームス本人と親交の深かった人物が見られる。特にマンデュチェフスキーは、ブラームスの子分のような関係であり、その機知とユーモアが愛されていた上に、ブラームス没のとき、資料館長の座にあった。

マンディチェフスキーからすれば、師匠の遺品を収蔵品に加えることに他ならない。ブラームス自身の直筆譜面、ブラームスが収集した他の作曲家の直筆譜が、同コレクションの白眉となっているほか、ブラームスが収集した出版譜や書籍も膨大な量が残されている。ブラームス宛に送られた著名人からの手紙もほぼ無傷でもたらされた。

これだけでも愛好家にとっては垂涎物だが続きがある。この寄贈を機会に、マンディチェフスキーは、さらにブラームス関連の資料を充実させようと決意した。散逸した資料の買戻しはもちろん、生前ブラームスと親交のあった知人友人からゆかりの品物の寄贈を受けた。

単に音楽的な価値であることに留まらず、ブラームスの生きた時代の社会世相を忠実に反映した第一級史料という価値をユネスコによって正式に認められたということだ。まずはブラームス本人の旺盛な好奇心と、それに立脚する収集癖がベースになり、寄贈を受けた楽友協会の収集方針に一貫性客観性が宿っていたことが大きい。

 

 

 

 

2022年1月18日 (火)

建築ラッシュ

ブラームスが進出した頃のウィーンは建築ラッシュの真っ只中だった。ブラームス進出の5年前1857年に皇帝フランツヨーゼフ1世は、ウィーン市壁の撤去を決定した。過去トルコ軍の包囲を耐え抜いた市壁なのだが、もはや時代は移った。

ウィーン市外をグルリと取り囲む幅およそ500mの土地が忽然と姿を現した。市庁舎、国会議事堂、司法省、市立公園などの公の施設が続々と建設された。それでも余った土地は民間に払い下げられた。現代ウィーンの輪郭はこのときから数十年の間に形成されていった。

1869年に完成した宮廷歌劇場は現在の国立歌劇場で、翌1870年には楽友協会が完成。1872年に協会の芸術監督に就任したブラームスは竣工間もない建物に通い詰めたことになる。コンサート会場で名高いコンツェルトハウスの完成は1913年。一連の建築ラッシュのなかではむしろ遅いほう。

2021年7月 4日 (日)

ニコラウス・ドゥンバ

ウィーンの実業家。他にもさまざまな肩書き。国会議員、市会議員、貯蓄銀行総裁でもある。何よりも芸術家の支援者だ。さらには自身が有能なテノール歌手である。ウィーン男声合唱団の団長も務めた。パルクシュトラーセ4番地の屋敷は4階建てで、ほぼ宮殿と申してよい規模。ここの音楽サロンの装飾はグスタフ・クリムトによるものだ。

現在ウィーン観光の目玉になっているような有名な建物の多くが彼の寄付によって建てられたという。楽友協会、コンツェルトハウス、クンストラーハウス、市庁舎、国会議事堂、フォーティフ教会、ウィーン大学など枚挙に暇が無い。

屋敷の音楽サロンにはブラームスの出入りも確認されているし、資料室にはブラームスの手紙も保管されている他、何と言ってもシューベルトの自筆譜のコレクションが超目玉だ。ブラームスはこれが目的で出入りした可能性もある。ウィーン郊外への散歩にブラームスと同行したことがホイベルガーによって証言されている。

さらにもっと凄い話を小耳に挟んだ。ウィーン中央墓地にあるドゥンバのお墓は、ブラームスの墓の隣にある。ブラームスは26番で27番がシュトラウスなのだが、25番がドゥンバだった。ウィーン中央墓地32区Aは「楽聖特別区」だ。音楽家ばかりの一角に埋葬されているところを見ると現地では相当な位置付けだと思われる。

2015年7月23日 (木)

聴衆の無関心

後にブラームスザールと改称されることになる楽友協会小ホールの「こけら落とし」公演にクララ・シューマンが出演した話を昨日しておいた。そこで、当日のプログラムの冒頭がブラームスのホルン三重奏曲変ホ長調op40だと書いてはしゃいだ。

ところが、クララは後日友人に「聴衆には全く受けなかった」と書き送っている。クララ自身はこの三重奏曲を「真に精神性に溢れ、どこから見ても全く持って興味深い作品」と評価している。それなのに聴衆の反応が冷たいと嘆いているのだ。

ある程度は仕方が無い。当時クララは欧州最高のピアニストの位置にあった。シューマンとベートーヴェン作品の当代一の解釈者という位置づけだ。その彼女が満を持して杮落とし公演にのぞむのだから、ましてそのプログラムに冒頭には、絢爛豪華で華麗な作品を期待するのが人情というものだ。

ホルン三重奏曲は、1870年1月の同公演の段階で、ピアノ入りの室内楽としては最新の作品だ。クララの意気込みも判らぬでもないが、聴衆の期待するカリスマピアニスト、クララという価値観を存分に反映する演目とは言えない。クララの思いと聴衆の期待が完全にずれている。しかしクララの手紙には半ば想定内という諦めも見え隠れする。

後世の愛好家である私は、聴衆の好みとのズレも省みず、こけら落とし公演の冒頭にホルントリオを持ってきたクララの英断に心から拍手を送るものである。

申し遅れた。昨日8番目の室内楽ホルン三重奏曲にたどり着いた。

2015年7月22日 (水)

こけら落とし

劇場やホールのオープン公演のことだ。

1870年1月19日が、ウィーン楽友協会小ホールのこけら落としだった。現在ではブラームスザールと呼ばれているあのホールのことだ。

私も新婚旅行でウィーンを訪れた際に出かけたことがある。ヘルマン・プライのシューベルトの夕べだった。演奏もなのだが、トークが面白い感じのリサイタルだった記憶がある。その会場に上る階段踊り場に、クララ・シューマンの胸像が置かれていて嬉しかった覚えがある。

実は、ブラームスザールと後に命名されることになる、ウィーン楽友協会小ホールの杮落とし公演に出演したのは、他でもないクララ・シューマンだったのだ。後にブラームスの名前が奉られるなどとは誰も思っていなかったに違いないが、その動機のひとつになったような気がする。

今と違って、さまざまなジャンルがごちゃ混ぜのプログラムなのだが、最初の演目がブラームス作曲のホルン三重奏曲変ホ長調op40だった。ピアノを受け持ったのはもちろんクララだ。ブラームスザールの最初の演目が、ブラームスの室内楽で、あろうことかクララが出演していたというだけで半端無い由緒を感じる。

2009年10月27日 (火)

芸術監督の収入

第一交響曲に支払われた原稿料15000マルク(750万円)の重みを調べたくて、いろいろ資料を当たっている。リプリオ出版から出ているジュニア向けの伝記「人はみな草のごとく」に興味深い記述があった。

149ページにウィーン楽友協会芸術監督就任が言及され、その年収が3000フロリンだと書いてある。フロリンはグルデンと同じでこれがおよそ6000マルクに相当する。破格の待遇であったことも同時に仄めかされている。1872年の秋から3シーズンを務めた訳だから、ブラームスはこの仕事で合計18000マルクを得たと思われる。

ということはつまり、ブラームスの交響曲1曲には、楽友協会芸術監督3年分の報酬に近い額が支払われたという計算になる。

2009年5月 9日 (土)

バブル崩壊

今日本は昨年秋に始まった世界的不況のまっ只中にいる。それは「バブル崩壊」と形容される株価の暴落に象徴されている。

1873年5月9日だから今から136年前の今日、ウィーンの株式市場が大暴落を起こした。1871年の普仏戦争勝利により50億フランもの巨額の賠償金を獲得したドイツがバブル経済状態に陥った。その資金は一部がオーストリアに流れ込んでいた。ベルリン株式市場の暴落が波及するのはむしろ当然だった。1866年普墺戦争に敗れた混乱からようやく立ち直り、ウィーン万国博の開催にこぎつけた途端の出来事だった。これによって引き起こされた不況で何が起きたか、現代の日本人に説明が要るとは思えない。8つの銀行が破産し、40の銀行が清算に追い込まれたという。ドイツがこの不況から脱するのは1895年とされている。

1874年1月にはオーストリア政府つまり皇帝の旗振りで「中小企業支援のための皇帝フランツ・ヨーゼフ基金チャリティーコンサート」が開かれる。これにブラームスも出演しているのだ。伝記にもちゃんと書いてあるけれど前後の脈絡が語られていないことが多いので、ちょっとした違和感を感じることもある。この不況によって疲弊する中小企業の救済が目的とすれば、すんなりと腹にはいる。

そして庶民が生活を切りつめるのは明らかだ。ウィーン市民が演奏会に出かける回数を減らすことは想像に難くない。

これにブラームスの経歴を重ねてみる。1872年秋のシーズンから1875年春まで丸3年楽友協会の芸術監督の座にあった。つまりこのバブル崩壊は監督在任のまっ只中だったということだ。1872年秋に始まった最初のシーズンが4月に終わった後だから、影響を受けたのは1873年秋からの2年目のシーズンだ。

3年を勤め上げた後、契約の更新に応じなかった原因が伝記にも書いてある。ブラームスが取り上げるプログラムが渋すぎて、水面下でブーイングが貯まったことに原因を求めることが定着している。曲目を見ればその説明でも一応納得できるのだが、現実はもっとシビアで、はっきり言って演奏会の売り上げが落ちたというのが実態なのだと思う。でもそれはブラームスの選曲以前に、バブル不況で客足が遠のいたためだと解したい。しからばとばかりに何とか市民に来てもらおうと、選曲に匙加減を施す機転が利かなかったのだと想像したい。

成績不振の責任を監督に問うのは何もサッカーだけの話ではない。

2007年11月26日 (月)

音楽監督

何らかの音楽系団体において、その団体の音楽的方針の決定権を有する者くらいの認識しか思いつかないが当たっているのだろうか。もちろんヒットエンドランや送りバントのサインを出したりはしないが、団体の性格によっては相当偉いということもある。

ブラームスは1872年のシーズンから3シーズンの間、伝統あるウイーン楽友協会の音楽監督に就任していた。このことは「相当たいしたモン」である。演奏会のプログラミング決定の最終責任者ということを意味する。

ブラームスの選曲は、これまた異例だったらしい。一言で申せば「渋い選曲」だ。4年間で演奏された交響曲はハイドンのハ長調と変ホ長調が各1度だけだ。交響曲といえば現代では演奏会プログラムの華である。オペラを別格とすれば4番打者みたいなものだ。それが4年間で2回とは驚きだ。案の定水面下でのブーイングは凄まじかったらしい。1875年春、辞任に至った原因の一つになったといわれている。

ブラームス自身の交響曲はまだ1曲も完成していないから仕方ないとして、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマンといった面々の交響曲が全く取り上げられていないという徹底振りには、強固な意志さえ感じられる。リストの交響詩ならいざ知らず当事既に登場していた交響曲群を一顧だにしていない一方でベルリオーズの「イタリアのハロルド」が取り上げられていたりするから油断が出来ない。誰がヴィオラを弾いたのだろう。

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