1856年ロベルト・シューマンが没したことにより、ブラームスの献身は一区切りを迎えた。明くる1857年5月31日からおよそ一週間デトモルトに滞在し宮廷で演奏した。クララの紹介はあったものの、これは実質就職試験だった。結果は「採用」だった。同年9月からデトモルトの宮廷勤務が始まった。9月から12月までの季節限定勤務で、1859年までの3年間続けられた。
デトモルト。ビーレフェルトの南東およそ25kmに位置する小さな街。小さくはあるがリッペ・デトモルト公国の首都。森に囲まれた自然環境と、けして多忙ではない職務の間、ブラームスは周囲の自然を堪能した。
デトモルトについて調べているうちにこの街が、ドイツ史の中で特筆される位置にあることがわかってきた。特にブラームスが滞在した19世紀中ごろまでは、名実共に歴史の街だった。
世に言う「トイトブルクの戦い」。敗者はローマ帝国ゲルマニア駐在の司令官ヴァルス。勝者はケルスキー族の王アルミニウスの戦。「桶狭間」と「本能寺」と「関が原」をあわせたような位置づけにある。
まずは「桶狭間」。海道一の弓取り今川義元が、当時無名の織田信長に敗れた戦い。「雨」「奇襲」「油断」が、戦国最大の番狂わせを実現させた。ヴァルス率いるローマ軍団18000が、雨の中トイトブルクの隘路で全滅させられた。
そして「本能寺」。勝ったアルミニウスは、ローマに学んで東方戦線での勲功により騎士に列せられていた、れっきとしたローマ市民。あろうことかヴァルスの部下。この戦いはアルミニウスの謀反だ。
最後に「関が原」。戦いの帰趨が後世に与えた影響という意味で比肩する。歴史に「たられば」は無いと前置きされながら、「もし結果が逆だったら」としばしば考察されてきた。おそらくローマはエルベ川までを属領としたに違いない。現代のドイツはかなり形を変えていたと考えられている。
さて9月11日といえば、アメリカを震撼させた同時多発テロの日だが、このトイトブルクの戦いは西暦9年9月11日とされている。
アルミニウスが属したケルスキー族の本拠地こそが、デトモルト付近だ。ブラームスが勤務していた頃は、トイトブルクの古戦場もデトモルト近郊だと信じられていた。
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