「楽曲分析」と解される。作曲家や演奏家にとって必須な知識だ。つまり作曲や演奏の分野で優れた実績を残そうと思えば思うほど避けて通れぬ過程なのだ。単なる「作品解説」との境界は混沌としている。私は「演奏が目的であること」が譲れぬ条件だと思う。そしてもちろん演奏の受け手つまり聴衆にとっても、楽曲の味わいに深みを与えるソースでもあるのだ。
コミック「のだめカンタービレ」ではパリ編に突入以降、アナリーゼの授業のシーンがしばしば描かれる。
のだめ本人はかつてブラームス第3交響曲のアナリーゼで挫折を味わった。
最新の18巻ではアナリーゼの核心に触れる描写が随所に現れる。
61ページで孫Ruiちゃんのアナリーゼが描かれる。曲名は不明ながら分析が的確であったことが教官の態度から類推出来る。しかし、孫Ruiちゃんのモヤモヤは晴れない。オクレール先生との授業が思うに任せないのだ。必死に食い下がる彼女を、軽くはぐらかす形でオクレール先生と孫Ruiちゃんの食事のシーンが訪れる。66ページだ。食事に興味が無い孫Ruiちゃんに驚いたオクレール先生は「音楽も料理もいっしょ」「指揮者も料理人もシェフ」といって諭す。半端ではない説得力だ。「ソースの味から原料をあてよ」と迫る。そして「わからぬものには作れない」とトドメが刺さるのだ。70ページの最初のコマである。
思い詰めた孫Ruiちゃんはのだめのレッスンを聴講するが、あえなく追い払われてしまう。そして千秋にディナーをおごらせることになる。孫Ruiちゃんの回想を無惨に遮る形で千秋が「このポレンタすげー美味しい」「なんだコレ」「ネズの実か」「作れっかな」と口走るのだ。味から原材料を想定し、さらにそれが自分に作れるかを自問するのだ。つまりオクレール先生の言葉を千秋自身がそのままトレースしている。指揮者・千秋が料理の腕前もなかなかのレベルであるという設定が、この場面ほど説得力を持って迫ってきたことは無かった。
種は蒔かれたと見ていい。これらの体験が今後孫Ruiちゃんによってどう消化されるのか楽しみである。
ブラームスはこうした意味のアナリーゼのやりがいにおいて群を抜いた存在だ。ソースの正体が簡単に突き止めにくいという点で驚嘆に値する存在だと思う。あるいはありふれた素材を用いながら、調理法や味付けに工夫を凝らし、素材の新たな魅力を引き出すという点において底がない。
「ブラームスの辞書」は本もブログも、ソースや素材の正体を探求するためのガイドブックになりたいと思って存在しているのだ。
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