1958年ブラームスはハンブルク近郊ハムに下宿した。ピアノ四重奏曲第2番が完成するなど恵まれた環境だったという。そしてその下宿にほど近いとある家の庭先で、上手に歌う2人の少女を見かけて声をかけた。万葉時代を彷彿とさせる光景を連想する。実態はいわゆるナンパに近かったのではあるまいか。
彼等は、女声アンサンブルを結成しようということで意気投合した。仲間を2人加えて女声四重唱団になった。翌1859年1月ピアノ協奏曲第1番の初演が逆風に遭遇し、ハンブルクに舞い戻った頃には、その人数は28名にまで膨れあがっていた。やがては40名の団員を擁する立派な合唱団になった。1861年までブラームスは無報酬で、定期的な指導を引き受けたという。ブラームスの人柄と才能が一役買っていたと思われる。この合唱団の主たるメンバーには、生涯独身または晩婚の人が多いと指摘する切れ者もいるようだ。
レパートリーの中心はブラームスだ。ドイツ民謡をブラームスが編曲した作品が52、ブラームス自身のオリジナル作品が36、他の作曲家の作品をブラームスが編曲した作品が14で合わせて102曲が同女声合唱団のレパートリーだった。
ブラームス自筆のスコアが9種類、他者の手による筆写スコアが9種類、他者の手によるパート譜が25種類、現在に伝えられている。
筆写したのは主に団員だ。名前の判明しているのは以下の通り。
- リープヒェン・ワーグナー嬢
- ベティ・フェルカース嬢
- マリー・フェルカース嬢
- フランチェスカ・レンツ嬢
- ラウラ・ガルベ嬢
- ベルタ・ポルプスキー嬢 子守歌を贈られた人。
この他名前のわからぬ2名か3名が、筆写に関わっていたとされている。
そして何とクララ・シューマンの筆写譜も残っている。まさか大ピアニスト・クララにパート譜作りを手伝わせたのではあるまいな。
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