弓こそは全てか
ひょんなことからヴィオラの練習にヴァイオリンの弓を使った。5月12日から15日までの4日間だ。
ヴィオラの弓のスペアがないという失態のせい。
老後のたしなみにヴィオラ演奏をと目論んでバッハを主神とあがめる立場。ドイツ製巨大ヴィオラの鳴りこそ全てとばかりに練習に打ち込もうと決めた矢先だ。ヴァイオリン弓になんら罪はないが、その鳴りの違いにうなだれた。
考えてみる。そもそも楽器の鳴りを構成する要素は何なのか。
「腕前」「楽器」「弓」で完結する気がする。この場合「鳴り」とは、「いい音」を指す。が、必ずしも「いい演奏」ではあるまいとにらんでいる。そりゃあ腕前が最重要には違いない。楽器や弓がどんなに優れていても鳴りは腕前の範囲内にとどまると言われたら返す言葉はない。
この度の4日練習するにはしたが、鳴りが目を覆うばかりだった。「腕前」と「楽器」を固定しておいて「弓」だけ差し替えた状態だから、説得力がある。せっかく練習に時間をかけるのだからいい音を出したいが、場合によっては弓がそれを妨げることがあるかもしれないと感じた。あるいは「楽器」の性能を充分に引き出せないというリスクを痛感した。
「腕前」には素質という制約がついて回る。素質の範囲内でいいから高みを目指したい。同様に「楽器」や「弓」には予算の制約がついてまわる。予算の範囲内で高みを目指したい。腕前と予算というよくある制約の内側でどこまでやるのか。幸い楽器には不満はない。弓をどう考えるのか思案が思案を呼ぶ。
これらに気づかされたことを今回の収穫とさえ思い詰める。
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