1840年のことだ。バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番がライプチヒで公開演奏された。ヴァイオリンを弾いたのはフェルエディナンド・ダーヴィッド。メンデルスゾーンの盟友で、ヴァイオリンコンチェルト初演にあたり独奏を託されるほどの間柄。当時のバッハ演奏の第一人者で、もちろんバッハ協会の発起人の一人だ。
このシャコンヌの演奏が記録に残る限り初の公開演奏だったとされている。このときメンデルスゾーンが即興でピアノ伴奏した。それを実地でシューマンが聴いていたという濃いエピソードだ。
シューマンは演奏を聴いて「バッハの無伴奏ヴァイオリン作品に新たな声部を付与するのは不可能だというバカげた意見を述べた人がいるが、メンデルスゾーンの伴奏はそれに対するこの上ない反論である」と語った。
現在では、バッハがヴァイオリン1本という制約の中で果たそうした狙いが正しく認識されているのだが、当時はこのありさまだったということだ。一般に旋律楽器と認識されているヴァイオリン1本で、複雑なポリフォニーが過不足なく表現されていること、それがシャコンヌという制約の多い形式の中に盛られていること自体がバッハの狙いなのだが、わざわざピアノ伴奏を施すという風潮だったということだ。ピアノがその機能を飛躍的に拡大させていった時代と重なるのは偶然ではあるまい。ピアノが2本の腕、10本の指でフルオーケストラの響きさえ再現可能な万能楽器として認知されるに及んで、ピアノ以外の独奏はピアノに伴奏されることが当たり前になった。ピアノソナタだけが「無伴奏ピアノのための」と呼ばれないことがその証拠だ。
1847年にメンデルスゾーンのピアノ伴奏付「シャコンヌ」が出版されたのを筆頭に、1854年にはシューマンが無伴奏ヴァイオリン曲全6曲のピアノ伴奏付加版を出版した。シャコンヌでのみ、両者の聴き比べが可能だ。
ブラームスは師匠であったシューマンはもとより、メンデルスゾーンだって尊敬していたが「シャコンヌ」の扱いだけは正反対だ。クララの右腕脱臼の見舞いはキッカケに過ぎまい。若いころヨアヒムに弾いてもらった「シャコンヌ」をピアノ編曲するにあたり、「バッハが無伴奏ヴァイオリンでよしとしたなら俺も」とばかりに右腕の参加を拒否したのだ。オクターブ下げる以外何もせんという編曲方針を貫いたのは、シューマンやメンデルスゾーンに対する無言の挑戦と見た。
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