辞書は断念
「バッハ作品目録」の話。全作品が列挙されているとはすで何度も述べた。そこにはたった1小節の冒頭譜例も律儀に収載されている。しかしながら、その譜例には、音楽用語が抜けている。「Allegro」や「Agdagio」などの用語や強弱記号が脱落しているということだ。
残念だ。それらもろとも収載されていれば、バッハの音楽用語の貴重なデータベースになっていたはずだ。冒頭部分だけにとどまるにしても、用語が全部わかれば「バッハの辞書」に発展させることもできたはずだ。
「バッハ作品目録」の話。全作品が列挙されているとはすで何度も述べた。そこにはたった1小節の冒頭譜例も律儀に収載されている。しかしながら、その譜例には、音楽用語が抜けている。「Allegro」や「Agdagio」などの用語や強弱記号が脱落しているということだ。
残念だ。それらもろとも収載されていれば、バッハの音楽用語の貴重なデータベースになっていたはずだ。冒頭部分だけにとどまるにしても、用語が全部わかれば「バッハの辞書」に発展させることもできたはずだ。
「pp dolcissimo」を声に出して読んでみていただきたい。
何か変だと感じた方は日本人っぽい。文字で書いただけでは気づきにくいのだが、声に出すと最上級の「イッシモ」が重複していることがひっかかる。「最も弱く、最も優しく」と解することで破綻は生じまいが、語呂がよろしくない。
日本語で文章を書く場合、同様の語尾が前後に近い文で重複すると語呂が悪くなる。特段の事情が無い限りはそれを避けるのが普通だ。そのために日本語には同意別語が山ほど存在する。「だ、である」調と「です、ます」調の混在は耳障りだが、かといって「である」の連発も同じくらい気になるものなのだ。ブラームスの母国語であるドイツ語や音楽界御用達のイタリア語で、このあたりの事情はどうなっているのだろうか。
実際に「pp dolcissimo」という表示は下記の三箇所に実在する。
イタリア語でもこうした重複が忌避されているから少ないのか、単なる偶然なのか判然としない。
「速く力強く」と解される。辞書的な解釈としては、あるいは試験での模範解答としてはこれでいいのだと思うが、何だか味わいが無さ過ぎる。
「energico」のキャラは特徴がある。ブラームスはトップ系において生涯で8回使用している。ダイナミクスは「f」または「ff」に限られている。8例中7例が短調だ。弦楽五重奏曲第1番の第3楽章にのみ長調の用例がある。また「energico」単独での用例は存在せず、必ず何か別の用語との併用になっている。パガニーニの主題による変奏曲第2巻157小節目第10変奏が「Feroce,energico」になっている以外は「allegro」または「presto」との併用に限られている。「速め系の短調が強く走り出す」ことに特化していると考えていい。「appassionato」よりは響きが厚い印象だ。
「Presto energico」はそういう流れの中で捉えられるべきだと思う。作品116-1のニ短調の「カプリチオ」に一回だけ出現する。「短調、f」の枠組みはキチンと守られている。ブラームスにおいては「presto」は制御の対象であり、しばしば意味を弱める抑制系を伴うが、本例はどちらかというとテンポを煽る意味合いが込められている。
このカプリチオはブラームスの一連のピアノ小品の中では、難曲の部類だ。演奏者のリズム感が絶え間なく試される。アクセントの位置が小節の頭と一致しない。いっそ小節線が8分音符一個分前にズレていたらいいと思う。拍節のズレが延々と続くストレスと、たまに訪れるズレの回復の快感が本質なのではとさえ思わせるものがある。
そうした緊張は、テンポが速くてこそ味わえるということが、この「Presto energico」にはこめられている。
ブラームス作品にあってはメジャーな用語「leggiero」のお話だ。一般に「軽く」と解されて疑われることのない言葉でブラームスには300箇所を超える用例がある。本日はブラームスの「leggiero」について考察する。まず「leggiero」の使用上の特色は下記の通りだ。
ブラームスの複数の知人が、ブラームスのピアノ演奏について語ったところによると、ブラームスはベースラインと旋律以外の声部について輪郭をなぞる程度にサラリと弾いたとある。こうしたニュアンスが楽譜上に投影される時しばしば「leggiero」が書かれたと考える。この証言は上記3つの特色と矛盾しない。
「引きずって」と解される「pesante」の反対概念という可能性もあるが、出現頻度がバランスを欠いていて受け入れがたい。「marcato」の反対概念と解する方が収まりが良い。「marcato」を「ベースラインマーカー」あるいは「f側主旋律マーカー」と位置づけることともよくマッチする。
それからもう一つ大事なこと。
白玉の音符、つまり2分音符以上の音符とは共存しない一方で16分音符が一定量連続する場合に現れやすい。音符がこみいった声部が、他の声部を邪魔しないようにというお守りの側面も無視できない。
「leggiero」を軽く考えてはいけない。
中国北宋時代の言葉。為政者の心得を端的に述べている。「国の指導者たるもの民に先立って憂い、民の後から楽しむべし」という意味だ。この言葉にならって屋敷や庭園が「後楽園」と命名されるケースもある。寡聞にして「先憂園」というのは聞いたことがないが。
「先に苦労して、後から楽をしよう」というアンチキリギリス派の言葉だと思っていたが、どうも違うらしい。「先」「後」というのは選択可能な2つの行為のうちどちらからというような種類の概念ではなく、「民より先」「民より後」という意味だとは最近知った次第だ。先に家や車を取得してローンが後からという図式はどちらにしろ真逆もいいところだ。
ブラームスの音楽用語使用の傾向を観察していると、私が勘違いしていた意味の「先憂後楽」の気配が漂っている。若い頃は自分の思いを伝えたくて、言葉を厚く重ねた用例や、大げさな表現が目に付く。演奏家たちに自分の意図が伝わらないことを恐れているかのようである。初期のピアノ独奏曲を中心にそうした傾向がデータ面でも現れている。作品番号でいうと10番以内が特に顕著で、35番までが過渡期だ。キャラクターピース連発の76番以降は穏やかな表現が優勢になる。歌曲では作品19と作品32の間に転換点がある。室内楽ではとはいえ作品8のピアノ三重奏曲の初版だけにその痕跡が認められる。
作品が世の中に認められ、作曲家として押しも押されもせぬ位置付けを獲得する歩みと平行して、使用する音楽用語の簡素化が進んでいるような気がする。演奏家たちがブラームスの語法・語り口に慣れて行くにつれてと言い換えることも出来よう。
そういえば「苦悩を克服して歓喜へ」というのも「先憂後楽」っぽく見える。
最初に買ったLPに収録されていた悲愴の2楽章に打ちのめされた。「あのベートーヴェンがこんなにきれいな曲を」という衝撃だった。運命交響曲の第2楽章以上の衝撃だ。どちらもハ短調の第1楽章に変イ長調の緩徐楽章が続く。調的枠組みが同じと気づいたのはずっとあとのことだ。
悲愴の第2楽章は今もその輝きを失わない。楽章冒頭には「Adagio cantabile」が鎮座する。生まれて初めてこうした楽語に興味を持った。この旋律を思いついたベートーヴェンが、演奏家に感覚を伝えるために選んだのが「Adagio cantabile」ということだ。「歌うように」という意味にもすぐにたどり着いた。その後50年今もブログ上で付き合っている音楽用語への最初の興味だ。
ベートーヴェンの他の作品にも頻発する「Cantabile」がブラームスでは不気味な空白区を作っていることに気付くのはさらに30年後のことだった。
鳴っている音楽を聴いてそれを楽譜に書き留めることあるいは、その能力のことか。聴音とは決定的なニュアンスの違いが有るような気がする。作曲や演奏の第一人者の中にはこの才能を併せ持っている者も多いが、作曲や演奏の能力とは別の才能だと思われる。
歴史上名高いのはモーツアルトだ。旅先で聴いたミサ曲を帰宅後に正確に楽譜に書き落として見せたらしい。聴く力もさることながら、記憶力も並ではない。
この場合の正確さの範囲はどこまでだったのだろう。
上記4や5まで完璧に一致したことを指して「正確」と表現したのだろうか。だとすると演奏も本当に緻密だったのだと思う。
楽譜上に「p」という記号を見た演奏者が、「このくらい」とばかりに出した音を聴いた耳コピイストが、毎回必ず「p」と書けるのだろうか。「耳コピ」の能力とはここまで含むものなのだろうか。あるいは演奏者の解釈まで見通して同じ音量でもこいつなら「p」だが、あいつなら「mp」などというさじ加減があるのだろうか。単に耳コピの能力という場合そこまで含むのだろうか。
気になりだすときりがない。
音楽作品は作曲家の創意の結晶である。これは疑えない。それが注文による作曲であったにしてもだ。もちろんその楽譜上に記載される楽語の選択も含めて、作曲家その人の意思の発露である。作品を世に問う手段としての楽譜出版の位置づけが重みを増せば増すほど、楽譜上に記される楽語の重要性もまた高まっていくことは確実だ。
さて、そうした作品がある程度たまってきたとして、作曲家はそれを手元において常に参照しただろうか。もっというならそこで用いられた楽語をカウント集計していただろうか。
おそらく答えは「No」だ。つまり作品自体はそこに書かれる楽語含めて意思の反映であるのに対し、作品群中の楽語の使用頻度までは意識されてはいるまい。250年後の極東日本の愛好家がまさか数えるとは思ってもいないはずだ。
だから楽語使用の頻度は、作曲家の無意識の反映だ。だからこそヴィヴァルディの「ALA」への固執は、個性の反映であると解し得る。
「Allegro」が「Largo」を挟む楽章構成を持ったコンチェルトがヴィヴァルディには頻発するのにバッハではちっとも見かけない現象を追いかけている。協奏曲の数がさほど多くないバッハだから仕方ない面もあるとして、多作家として名高いテレマンで試すことにした。
テレマンの協奏曲は全部で112曲あるから、楽しみにしていたのだが、テレマンの場合、協奏曲が4楽章になっているケースが多く、肩透かしをかまされた感じ。全112曲の協奏曲のうち3楽章構成を採用するのはわずか31曲に過ぎない。
本日話題のALA型はたった1曲にとどまる。オーボエ協奏曲変ホ長調TWV51:Es1だけだ。緩徐楽章に「Largo」が用いられないわけではなく、「Allegro」に挟まれないということだ。
タルティーニのヴァイオリン協奏曲125曲について急緩急3楽章の発想記号がどうなっているか調べている。「ALA」はわずか14%程度。しからば何が多いのか。
「急緩急」のうち、両端の「急」については「Allegro」がほとんどで、変わるとしても「Presto」だ。この点はヴィヴァルディと大差ない。問題は中間の「Largo」が、どう差し替わるかだ。そこで両端を「Allegro」で固定し、中間楽章のバリエーションを調べた。
バランスが取れていると申し上げていいだろう。「Sostenuto」を除けば顔ぶれはヴィヴァルディと大差ない。ヴィヴァルディの「Largo」への固執だけは確実だろう。
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