ブラームス作品の楽譜を多彩に縁取る用語には、いくつかの傾向が見て取れる。「non troppo」「poco」「moedrato」のような抑制語の頻発だ。さらには「~etto」「~tino」のような縮小語尾の多用も認められる。一方で「molto」のように意味を煽る用語の使用は、限定的である。
今述べたような用語使用の癖は、テンポ面においては常に「テンポを抑える」方向で使用されている。「non troppo」は大抵allegroやprestoを修飾している一方、「molto」はその逆でallegroやprestoをほとんど修飾しない。
どうもブラームスは自作の速過ぎる演奏を恐れていた節がある。かといって過剰な遅さを容認していたことにはならないまでも、リスクの量と重大さにおいては「速過ぎ」の方が深刻だったと考えていたようだ。
ブラームスの作品は、他の作曲家だったら、5小節かけて表現することを1小節で済ませるかのような表現の濃縮が売りである。1音で済むところは2音以上使わないという種類の節約が肝である一方、それらをけしてプアな印象に直結させない質感が本領だ。音楽の質としてこれらを有するということは、単位時間あたりの音楽の密度が濃いことに繋がる。「ここは絶対に聞かせたい」という類の見せ場が作品中高い頻度で訪れるとでも言っておこうか。和音進行であったり、旋律美であったり、対旋律とのからみであったり、リズムの錯綜であったり、ヘミオラであったり、聴き手や弾き手への謎かけであったり、景色は様々ながら、あの手この手で見せ場を用意するのだ。
だからである。だから、古典派時代のような、いわゆる「一陣の風が吹き抜けるようなallegro」で走り抜けては、そうした濃さを表現しきれないリスクがあるとブラームス自身が悟っていたのだろう。無論、ベタベタの遅過ぎを手放しで認めたりはしないだろうが、速く走り過ぎてはせっかくの景色が楽しめないというブラームスの警告が用語使用面に現れていると感じる。
「速過ぎるな」と言っているだけで「遅くしろ」とは言っていないということは、常に留意されねばならない。やたらに遅くて重い演奏を「ブラームス風」あるいは「重厚」などと称して持ち上げ過ぎるのは論外ながら、ブラームスが用語使用面においては「速過ぎ」を恐れていたことは覚えておきたい。楽譜上に記した用語の意味合いを考え、楽譜を総合的に吟味すれば、テンポは必然として一定の領域に着地するというブラームスの考えを想定せざるを得ない。
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