ピアノ書法
思うだに難解。
ピアノ作品におけるピアノの取り扱いを言うと感じている。浮かんだ楽想と、楽器の機能・性質・音色のマッチングのさせ方かもしれない。作曲家の個性がパラレルに反映するから「ショパンのピアノ書法」「モーツアルトのピアノ書法」という言い回しも頻繁に見かける。
例によって音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻120ページをご覧頂きたい。ホイベルガーとの会話の中に興味深い話がある。
親しい知人の特権だろうか、ホイベルガーはブラームスのピアノ作品について鋭い突っ込みを入れる。ブラームスのピアノ作品が世間様ではしばしば「ピアニスティックではない」と言われていると水を向ける。
ブラームスは怒るでもなく「知っているよ」と答える。「でもピアノでちゃんと演奏出来るように気を配っているんだ」と続ける。
禅問答とはこのことだ。ピアノで演奏不能なところが無いよう気を配っていても「ピアニスティックではない」と言われてしまうことを当然と受け止めていると見た。
そしてブラームスはこのあと面白いことを口にする。「シューマンの作品はピアノでは演奏不能に見えるところもある」「その方が幻想的で素敵だけれど」と続けるのだ。ピアノで演奏不能な箇所があることを半ば肯定している感じである。そのほうがかえってピアニスティックであるかのようなニュアンスだ。
具体的に作品名を挙げていない上に私自身にシューマンのピアノ作品の知見が無いこととで、これ以上議論を深められないのが残念だ。けれどもピアノ書法に関するブラームスとシューマンの個性をうまく言い表しているのかもしれないと感じる。







最近のコメント