ブラームスの4つの協奏曲を聴いていていつも思っていることがある。まず以下のリストをご覧願いたい。
- ピアノ協奏曲第1番op15第3楽章Allegretto non troppo
- ヴァイオリン協奏曲op77第3楽章Allegro giocoso,ma non troppo vivace
- ピアノ協奏曲第2番op83第4楽章Allegreto grazioso
- ヴァイオリンとチェロのための協奏曲op102第3楽章Vivace non troppo
ピアノ協奏曲第2番だけが第4楽章になっているが、協奏曲のフィナーレを作品番号順に列挙したものだ。4つとも「アウフタクトを伴わない4分の2拍子」になっていることに加え、テンポも似たりよったりだ。
協奏曲というジャンルは本来独奏者の演奏テクニックの披露が大きな目的の一つとなっているから、第1楽章と緩徐楽章で作曲家の言いたいことはほぼ言い尽くしてしまって、フィナーレは独奏者に花を持たせるという作りになっていることが多い。複雑で華麗なパッセージを目にもとまらぬテンポで駆け抜けてこそのフィナーレだ。古今の名曲はほとんどそうなっている。ヴィヴァルディやバッハの時代はまれにメヌエットが置かれることもあったが「Allegro」または「Presto」と相場が決まっていた。古典派以降も序奏がある場合を除けば「Allegro」は最低ラインである。独奏楽器が何であれ、その点が揺らぐことはない。
ところがところが、見ての通りブラームスの4曲はスカーッとした快速な音楽にはなっていない。「Allegro」や「Vivace」が「non troppo」によって抑制されてもいる。ピアノ協奏曲第2番に至っては「Allegro」から「Allegretto」に陥落している。
言いたいことは緩徐楽章までに盛り込み終えて、フィナーレは「演奏者の花道」というような構造になっていないと断言したいくらいなのだ。フィナーレに至ってもなお言いたいことが山ほどありそうな感じである。あるいは華麗なパッセージを目にも止まらぬ速さで弾けることより大切なことがありますとでも言いたげである。「そういうコンチェルトをお望みなら他を当たってくれ」というメッセージかもしれない。盛り込もうとした音楽が濃いから、テンポが速過ぎると伝わらないことを危惧した結果のようでもある。
これらの協奏曲は楽譜の通りに弾くこと自体が超高難度であることは周知の通りだが、ただ間違えずに弾ければいいというものでもない度合いも半端でなく高い。そういうところが何だかブラームスっぽい。
昨日梅雨が明けた。
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