ネタの出どころ表示
著書「ブラームスの辞書」の執筆中に心がけていたことがある。ブラームスについての仮説や見解を提示するとき、それが自分のオリジナルなのか、他者からの引用なのか明らかな表現をすることである。とりわけ他者からの受け売り・引用の際には細心の注意を払った。「~だそうだ」「~らしい」「~と云う」等を文末に忍び込ませて、伝聞であることをほのめかしたり、「誰それのどういう書物の何ページ」という具合に出処を具体的に提示したりしてきた。
もちろんブログ「ブラームスの辞書」の記事も同様である。後から削除も編集も可能なブログは、出版物よりは数段柔軟だが、気を遣うことには変わりがない。
たとえば、ブラームスの第一交響曲の第四楽章の主題がベートーヴェンの第九交響曲の歓喜の主題に似ているというくらいメジャーなネタになってしまえば気遣いは不要だが、中途半端なメジャー度のネタの場合には神経を遣った。とはいえ、ド素人の自費出版本といえども、文章であるから、流れもあれば脈絡もある。「ネタの出どころ表示」に心を砕く余り、文章の流れが、ぎこちなくなってはいけない。要はバランスだが、口で言うほど簡単ではない。
何せ「ぎこちなくなってはいけない」という部分に配慮し過ぎると、ネタの出どころはたちまち曖昧になる。文末に参考文献をまとめて掲載しても、個々のエピソードごとの出どころはぼやけてくる。日本語で読めるブラームス本に関する限り、この感度を甘い側に設定してあるケースも散見される。あるいは、そこがぼやけているほうが好都合なのかと思われることも無いではない。結局一冊丸ごと他からの引用という極端なケースも混在することになる。自説の披露というより、「外国の偉い学者の説の紹介」に終始しているというわけだ。
著書にしろブログにしろ「ブラームスの辞書」は、出来るだけ自分のオリジナルの考えを披露する場だと考えている。だから、どこからどこまでが引用で、どこからどこまでがオリジナルなのかの線引きがとても大切になるというわけだ。他者からの引用なり、学界の定説を紹介することは、極力簡素化している。それらは私のブログで読まなくても、どこかに書いてあるからだ。
その自説たる代物が、幾多の批判にさらされる覚悟めいたものも少し持ち合わせている。
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