複数の審判が付与する得点の高低により順位が決まる競技。オリンピック競技に限ってもたくさんある。体操、新体操、シンクロナイズドスイミング、飛び込み、フィギュアスケートなどだ。審判の公平性こそが求められているから、審判員の構成や判断基準が明確厳密に定められているのが普通だ。それでも「一番速くゴールに着いた人が勝ち」「もっとも高いバーを超えた人が勝ち」あるいは「相手より多くゴールした方が勝ち」に比べると、物議を醸す確率は高い。
ブラームスのあまた存在する独奏ピアノ曲から、調性別にベストをチョイスするという試み、すなわち11月23日の記事「平均律ブラヴィーア曲集」の裏側である。作品や演奏のベストのチョイスは「採点競技」と同じ危うさを孕んでいる。記事のどこかに「独断で」などという言い訳を配備したところで、その危うさそのものは消えたりしない。開き直る。
ブラームスがバッハの「平均律クラヴィーア曲集」に深く親しんでいたことが発想の根源だ。この曲集は24曲が基本だ。この24という数字はショパンやショスタコーヴィッチにも霊感を与えたという。ブラームスには影響は無かったのだろうかと考えた。ブラームスの室内楽が全部で24曲あることくらいしか思いつかなかった。
ならば自分で選んでしまおうという訳である。おバカ度は高いと思う。公開のタイミングを狙っていた。私だけのバッハの日に因んでまんまと公開にこぎつけた。「ドヴォルザーク漬け」の脳味噌には、新鮮だと思う。
ブラームスのピアノ作品について調性別に私的ベスト作品を決めることに他ならない。曲集を名乗る以上ソナタや変奏曲などの大規模な作品は選考外とした。24全部の調があるのかどうかが心配だった。
ハ短調と嬰ヘ長調が最大の危機だった。対象外としたソナタから単一楽章を採用したり、これまた対象外の変奏曲の単一変奏を採用してごまかした。嬰ヘ長調のピアノ作品が無いことは想定もしていたが、ハ短調の品薄は意外だ。ハ短調同様の意外な品薄はニ長調やト長調でも感じた。
調性の抜けを作らないという意味では作品39のワルツの貢献が大きい。嬰ハ長調と嬰ト短調はワルツがなかったら修復出来なかった。つまりこの企画が成り立たなかったということだ。特に嬰ト短調は貴重だ。歌曲で同じ試みをするとこの嬰ト短調または変イ短調が空白になってしまい、計画を断念するはめになる。もちろん室内楽の楽章ではお手上げである。24の調全部が揃うということは、とても凄いことなのだ。
逆に変ロ長調のフーガは、他に小品があるのに私の意思で敢えて異例の採用をした。ニ短調もやや異例の採用だった。左手のためのシャコンヌはブラームスの作曲とは言えないからだ。しかし、「平均律ブラヴィーア曲集」がバッハ作品のパロディであることを考えると極端な違和感は無い。
異例を飛び越して掟破りの決定をしたのが、ヘ長調。並み居るピアノ作品を押えてオルガンコラールからの採用だ。本人の編曲ではないから反則スレスレである。スポーツにおいて「反則スレスレ」というのは時に美しくもある。野球ならばボークスレスレの牽制球、ベースカバーの内野手めがけて滑るダブルプレー阻止のスライディング、土をベースにかけるだけのベースタッチ。サッカーだとオフサイドスレスレのスルーパスだ。
もっとも真剣に悩んだのがロ短調だ。インテルメッツォop119-1「灰色の真珠」か、カプリチオロ短調op76-2か。ロ短調が全24曲のトリであることがポイントになった。ロ短調のカプリチオは、24曲先頭に選んだ作品119-1のハ長調のインテルメッツォと精神的に繋がっていると考えているのだ。だからカプリチオロ短調を選んだ。
バッハは「平均律クラヴィーア曲集」を通じて「24全ての調で同じように作曲出来る」ことを宣言した。バッハラヴのブラームスは、この言いつけをキッチリを実践し24全ての調でピアノ作品を残したことになる。歌曲や室内楽の楽章では完成しないから、ピアノ曲で完成させることが出来たというのは、ひときわ有り難みが深い。
さてさて、実際に私はこの曲集をipodに取り込んでいる。複数ある演奏の中から1つしか選べないので、1曲の重複もなく24人のピアニストを選ぶことにした。演奏の良し悪しは関係ない。好き嫌いは少し反映しているが、単なるパズルと割り切った。実はこの24人の選択も面白かった。
最近のコメント