目的と手段
ブラームスは変奏曲の大家だ。変奏曲が創作の柱の一つになっている。「~の主題による変奏曲」というタイトルを持つ作品は作品56「ハイドンの主題による変奏曲」を最後に姿を消す。しかし創作人生の最後まで変奏の手法自体が放棄されることはない。多楽章形式の作品の単一楽章がまるまる1曲変奏曲になっている例は、土壇場のクラリネット入り室内楽にまで盛り込まれる。
変奏曲自体が創作の目的になっていたのは「ハイドンの主題による変奏曲」までだ。それ以降「変奏曲」は、ブラームスの楽想を効率的に聴き手に伝えるための手段の域を出なくなる。ブラームス自身当代屈指の変奏曲の大家ながら、習得した作曲技法を振りかざすことを目的にした曲を書かないということだ。楽想が変奏曲の形態を求めた場合のみ必要最小限が用いられるのだ。
フーガも事情が似ている。フーガの文字がタイトリングされるのは作品24「ヘンデルの主題による変奏曲」のフィナーレが最後だ。その後の作品中に明らかにフーガの手法が用いられることはあっても「フーガ」そのものが作曲の目的であることがなくなるのだ。晩年に「大フーガ」を書いたベートーヴェン、「フーガの技法」を書いたバッハの姿勢とは一線を画している。ブラームスにとって「フーガ」は実験の対象ではない。
そういう意味では楽器演奏のテクニックも同様だ。作品が求める時に必要量だけを取り出して見せるのがテクニックだという立場である。「変奏」も「フーガ」も「テクニック」も目的ではなく手段である。







最近のコメント